私の転校履歴1:4つの小学校に在籍
これまでの転校履歴が現在の私の決断に至るのに、多大な影響を与えたことは否めない。小学校からの転校履歴を振り返ることで、各校でどのような自分が形成されたか、簡単にご説明したい。
まずは小学校。高校までエスカレーターで進学できる私立幼稚園に、お受験を経て入学したにも関わらず、その後は公立小学校へ入学。その後4校を転々とすることになる。
1. 藤沢市立の公立小学校→アブダビ日本人学校
2. アブダビのアメリカ系インター
3. 横浜市立の公立小学校
1.藤沢の公立小学校→アブダビ日本人学校
まず第一に、私は小学校の最初の二年間を藤沢の公立校で過ごし、その後父の転勤の帯同でアラブ首長国連邦のアブダビ日本人学校に転入した。
小学一年生から二年生中盤までの一年半は、ごく一般的な小学生だった私。そのため、特に勉強に熱を入れることもなかったが、その後の海外転勤の可能性を前に、徐々に英会話を学び始めた。
そうして迎えた初めての海外移住。小学二年生の頃の中途転入だったが、日本人学校だったこともありカリキュラムに大きな違いはなく、スムーズに溶け込むことができた。しかし、結果的にはそれが仇となってしまった。
というのも、アブダビ日本人学校での環境は完全に小規模かつ閉鎖的な日本人社会。小中合わせて30名前後の生徒は、お互いに父の勤務先や役職込みで付き合いが始まる。日本の監視社会の縮小版。ここに溶け込んでしまっただけに、周りの日本人からの牽制も多く、せっかく海外にいるのにも関わらず、オープンに英語を学習することが奨励されないに陥ってしまった。
渡航後一年も経たないタイミングで、それを打破するために決意したのが、インターナショナルスクールへの転校だった。
2. アブダビのアメリカ系インター
本格的に英語を学ぶため、小学四年生からアメリカンインターナショナルスクールアブダビ校に転校。
環境はもちろんのこと、学習内容も英語のスタンダードも劇的に変化し、最初は苦難にあえぐこととなった。そこで適応するために活かされたのが、小学生特有の柔軟性と独学での英語学習だ。
日本人は私以外にも3~4人程度在籍していたが、全く英語が喋れない状態であえて日本人を避け、積極的にネイティブの同級生と接近することを自らに課した。こういった大規模な学校は、ESLの対応に慣れた生徒が多い。そのため、私は比較的スムーズに同級の仲間として受け入れられた。
この時私が行動を共にしていたクラスメート達は皆、私の身振り手振りでのコミュニケーションに根気強く付き合ってくれた。見ての通り、日本人の中でも常にクラスで1,2を争うミニサイズだった私は、英語が話せないことも相まってか、頭ひとつふたつ分大きな友人たちにとても可愛がってもらえた。
私は彼女達とさらに親睦を深めるため、自宅での英語学習を集中的に行った。この時実行していたのは暗記ベースの学習方法。とにかく基礎となる文法を徹底的に叩き込んだ。
そのせいか、当初はかなり荒削りな英語だったが、友人との会話を通じて感覚的にコツを掴んでいき、帰国する頃には英検準一級の合格を手にした。
自分の言葉が理解されないという苦難をはじめは味わった。
でも、英語が話せるようになるには「苦労して当然」という考えをベースに持つことができた。小学生のこの時期にこの姿勢が身に着いたことで、一途な研鑽も可能になったし、その後の数々の環境の変化による挑戦も乗り越えられたのだと思う。
もう一つ、インターナショナルスクールの大きな特色として挙げられるのは、テストの代わりとして催されるエキシビションという研究発表会。そのほとんどはパワーポイントや、生徒が各々で制作したパネルを用いて行われる。
この定期的な研究発表会には、生徒同士で点数をつけ合うというシステムが存在した。このシステムが必然的に競争を生み、私は創意工夫を凝らして自分のプレゼンを差別化しようと努力する癖がついた。つまり、自分の勉強や作品の成果に、自分のオリジナリティーを最大に表現することが、評価や価値を生む、という点に重きをおくようになったのだった。
あらゆる事柄に対する自分の複合的見地を見据えることが必須となるこのプロセス。次第に私は自らが掘り下げやすいトピックを選り抜けるようになり、ひいては独自の観点を確立することにこだわるようになっていった。
そうして私はインターナショナルスクールで小学五年生までの三年弱を過ごし、プライマリーを卒業したのち(このインターナショナルスクールでは小学校は五年生まで)、日本に帰国することとなった。
3. 横浜市立の公立小学校
帰国後は、元々小学生としての残りの一年間を過ごす学校は中学受験までの繋ぎという捉え方をしていたため、こだわることなく近所の公立小学校に編入。しかし、上記のような小学6年生が突然転入した場合、スムーズに事が運ばないのは想像に難くない。
「周囲と違う」ことが弱点とみなされるのが日本の公立学校。横浜のかなり中心に位置するにも関わらず、排他的かつ時代錯誤とも言える帰国子女への偏見の数々には本当に驚かされた。自分の海外での積み重ねを否定されることも少なくなかった。先生はアブダビという地名すら知らなかった。
その時私の頭にあったのは中学受験。「絶対に志望校に入ってやる」ということだけだった。私の第一志望校が教育理念として掲げていたのは「個性の尊重」。制服も校則も存在しないこの学校が、当時の私の光明であった。
中学に向けて、私はますます日本で「周囲と違う」部分を懸命に磨き続けた。
ここで一旦妥協して、周囲に溶け込み楽しい小学生生活を送るという手も当然あっただろう。
とはいえ、元来相容れない人間と無理して仲良くすることに労力を費やすより、自分の将来のために努力を重ねる方がよほど有益である。そう信じて勉強に取り組み、第一志望校への合格を勝ち取ったのだ。
この一年間は心を許せる級友も教師も周囲にはほぼいなかった。受験が迫っているというプレッシャーも一貫してあった。小学生には抱えきれないほどの苦難に苛まれ、何度も挫折しかけた。
けれどもこの経験があってこそ、私は精神的に厳しい状況下でも目標に向かって邁進し続けることができるようになったのだと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?