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インターにおける日本人の立ち位置

アブダビとフィジーにおいて、日本人が数名しか存在しないマイノリティーであるインターに身を置いたことで、私は自分自身の潜在的なアイデンティティに度々直面した。同時に、周囲からのニーズとのギャップで苦悶することとなった。

インターナショナルスクールでの個性とはまず国籍であり、その国籍に応じて求められる立ち位置がある。フィジー校への転校当初、私は日本人として、裏方やフォロワーとして活動を強いられることが多かった。

露骨な差別というわけではないため、受け入れてしまいがちだった私。だが、次第に違和感を感じ始めた。
そこで、フィジー全土の高校を対象とした各校動画コンテストに向け、自分で映像の企画立案および制作監督を務めたり、学校で行われる模擬国連のメディアチームのリーダーとして活動したり、日本の学校での経験をこの学校でも活かしてみようと挑戦を始めたのだった。
これは、リーダーシップ・アントレプレナーシップが強く求められる役割であった。

企画を進める中で、後輩の統率やマルチタスキングなど、未経験だった仕事に取り組んだ。ハードではあったが、頼られることに慣れていくにつれて、私は多少責任が伴っても自分の判断ですぐに動ける立ち位置にありたいのだと自覚した。つまり、こういう活動を通して、自分のやりがいや充実感、そして評価や自信につながることを実感したのである。

ここで誤解を恐れずに強調したいのは、「周りに調和する、周りを支える」というのが海外での日本人学生として一番手堅い生存戦略であるということだ。

実際、私はアブダビにいた時点ではフォロワー側に回ることが多く、より積極性のあるネイティブの生徒からはその姿勢を好まれていた。
とはいえその時はほんの子供だったので、それでも問題なかったが。


問題は、フィジーのインターに転入した後である。
International School NadiにはESLは存在するが、私は海外経験も英語のバックグラウンドもあったことから、普通クラスへの編入となった。しかし、転校早々に不条理な状況に気付くことになる。


実際の英語レベルに関係なく、英語を母国語としない生徒たちが、他の級友たちから対等に思われていないのが明らかだったのだ。
グループでのプレゼンテーション・ディベートなどではネイティブの生徒が原稿を書き、アジア人にはそれを読み上げるよう指定することが多く、また、アジア人が発表する際には、他グループも教師も、端から懐疑的な姿勢をとるという現実がそこにあったのだ。


「雰囲気」を意識しない海外では、むしろ自分らが「雰囲気」を醸し出すことに無遠慮である。

「雰囲気」というワードをニュアンス通り直訳できる英単語が存在しないことからも分かるが、海外では「雰囲気」という概念自体の認知度が低い。その無意識さのためか、日本人は海外の人に対し「フランクで明るい」という印象を持つ傾向にある。
しかし同時に、「雰囲気」に関連する相手への気遣いは存在しない。つまり、先入観や偏見による相手への意識が、態度・姿勢に期せずしてダダ漏れなのだ。
ディベート中に、アジア人が話し出す前から目を細め首を傾げる、読み終わった後『念の為』全く同じ内容のスピーチを別の生徒が復唱するなどの行為が、この例として挙げられる。彼らに全く悪気はない。ただ無意識に、私たちへの軽視を露わにしてしまっているだけなのだ。


こうしたハンディキャップの中で必死に見えない偏見を払拭しようと一年間奮闘した結果、ようやく上記の活動の指揮を執るポジションを確立するに至ったのである。

逆にいえば、一年間の頑張りがなければ、彼らにとって私はいつまで経っても「私」ではなく「クラスの日本人」のままだったことは、間違いない。

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