「あたりまえ」を疑う
私たちは自分の暮らしている社会や日常を「あたりまえ」と捉えがちだ。他を知らなければ、もちろん自分の目の前にある、自分が知っていることがすべてで、それが「あたりまえ」と感じる。
でも、「あたりまえ」ってなんだろう。朝起きて、仕事に行って、たまに友達と夜の街に繰り出すかもしれないが、仕事が終われば家に帰って夜を過ごし、次の朝を迎える。手元にはスマホがあり、いろんな情報が常に流されていて、それに踊らされないようにと、やはりスマホから得たおすすめの自分を高めるための本などをスマホで読んでみる。きっとみんなもこうやって朝早くから夜遅くまで仕事しているんだろう。だれもが同じ「あたりまえ」を過ごしているんだ、これが人生・・・と独り言。
本当にみんな同じなのだろうか。私の「あたりまえ」の日々をみんな同じように過ごしているのだろうか。いや、今私の隣に座っている、見知らぬ誰かの「あたりまえ」の日常は私の「あたりまえ」の日常と同じじゃないんじゃないか。
私たちは自分の知っていることに基づいてしか物事を見られない。例えば、江戸時代の人たちのことを不便で大変な生活を強いられていたのだろうと思うかもしれない。でも、それは科学技術が発展した現代の便利さを基に考えているからそう思うのではないだろうか。アフリカのどこかに住んでいる民族が小さな泥の家に住み、電気もない生活をしていたら、その人たちは不便な生活をし、不幸なのだろうか?不便、不幸と思うのは、私たちは今の自分の価値観の物差しで見ているからじゃないだろうか。
世界の「あたりまえ」、日本の「あたりまえ」、地域の「あたりまえ」、自分の家庭の「あたりまえ」、自分の「あたりまえ」。「あたりまえ」はそこら中に「あたりまえ」な顔で存在している。「あたりまえ」の顔を真正面以外から見てみると、まったく違うふうに見えるかもしれない。自分の中の「あたりまえ」を疑うことで、新しいアイデアが浮かんだり、物事を改めて深く理解できるかもしれない。そう、可能性が生まれる。その可能性を信じてみると、もう少し優しい社会になるのかもしれない。