感覚の話 その2
子供の頃は直感って大事と思っていた。なのに、ちょっと知識がついてくると、言語化して説明できることのほうを選びがちになり、自分の感覚に耳を傾けなくなってきた。たくさん言葉を知っていて、言葉を駆使して説明できるようになることで、自分が高められるような気になっていた。
自分の感覚に耳を傾けるようになったのは、合気道がきっかけかもしれない。40を過ぎて始めた合気道は、私の身体と心に新しい刺激を送り込んだ。言葉で理解できるから、言われたことは納得できるし、技をかけるときも手順を理解し、体を動かそうとする。でもそれは技ではない。理屈がわかって、その通りに体を動かしているだけなのだ。
合気道の云々を語れるほどの自分ではないのだが、合気道を通して自分の身体に目を向け、耳をすますようになった。私の肌が感じる微妙な空気の揺れ、相手から発せられる目に見えないエネルギー。科学をもって、言葉を尽くして説明できるかもしれない現象なのかもしれないが、道場で相手に対峙する時、相手の体が触れる時、感覚を研ぎ澄ますと理解できることがある。
己を知り、己の軸を持つ。己があれば、相手の存在を感じられる。相手に寄りかかるでもなく、相手に寄りかかられるでもなく、大木が根を張り、堂々と立っているかのように存在する。そして私の感覚が私に語りかける。理性ではなく、心に。
心地よい安心感。なんともいえない居心地の悪さ。そんな感覚だけで生きていけるわけではないが、苦しくなったときに、おかしいなと感じるときに、もう一度自分の感覚を信じてみるのはいいのかもしれない。