個人の問題
夫がフランス人と言うと、よく言われるのが「ロマンチックなんでしょう」とか「愛してるとかいつも言ってくれるんだよね」など。フランス人は愛に生きているとかという幻想のもとに、想像を膨らませてくれる。「いえ、そんなことないよ。愛してるとか言わないよ」と返すと、「すっかり日本に染まってるのね〜」と返される。どちらにしても「国際結婚」という言葉に視界が曇っている。
愛情表現は社会文化によって多様だ。昭和の日本なら、街でいちゃいちゃしていると眉を顰められたり、年配の人が手を繋いで歩いてるのなんかあんまり見たことがなかった。今はスキンシップももっとオープンに感じる。ラテンの国々は愛情を見える形で表現する人が多いが、意外と韓国や台湾などもそんなところがあるように感じる。
フランスはラテンの国ではあるし、夫にはイタリア人の血も入っているが、ドラマチックなわかりやすい愛情表現をするわけではない。「言わなくてもわかっているでしょ」と口にすることもある。だからといって愛情を表現していないわけではなく、それは日常のさまざまなところで彼なりの表現で大いに表している。それが必ずしも私が望んだ形とは言えないときもあるが。
そう、言いたいのは、個人の問題でしょってこと。確かに社会・文化の違いは影響するであろうが、育ってきた環境、家庭での愛情表現の仕方、個人の好み、性格で結局さまざまなのだ。特に現代のようにメディアを通じて、国が異なっても多くのものを共有するような社会になった今では。
ここ最近ずっと頭の中がいっぱいなようで、まるでストレスのシールドを身に纏ったような夫にちょっとお疲れ気味の私は、今朝夫と会話することに気が乗らずにいたら、どうも私の態度が気になったらしい。だからか、道端で見つけた花の写真を送ってきた。彼らしい愛情表現である。