短編小説『夏のはじまり』
透きとおる硝子戸にうつった髪の毛を手櫛ですきながら、真昼の外へでると、アパートのわずかな日陰のさきは金色に照り返っていて、里菜はその場でぴたりと立ち止まったまま、小さなショルダーバッグの肩紐へ手をそえながらその裏地をさすった。
陰の恩恵かもしれないけれど、まだ真夏ではない通りの暑気はそれほどきつくはなく、寒いほどひんやりした構内からでたばかりの体にはほんのり暖かいくらいで、里菜は折からつづけざまに鳴き出した鳥たちの陽気な声に背中をおされるままそっと足を踏みだすと、二三台の車をやりすごしたのち小走りに道路を渡り、陰をさがしながら歩むうちみるみる火照ってじんわり湿ってきたものの、といってまったく耐えられないほどではない。
青く晴れわたった空には雲がところどころ薄く長くたなびいて、爽やかなその下には新旧のそろわない建物がこれまた高低のそろわない屋根をみせている。
道端には隙間とみれば所嫌わず生えてくる雑草がはつらつと緑に繁っているかと思えば、早くも日に焼かれて枯れきっているそのとなりで、白や黄色の花を咲かせていた。
里菜はその小さな花たちが生ぬるい風に涼やかにひらめくのを微笑ましく見送って、白く細い腰に留めた締めつけの穏やかなワイドパンツの足元をながめるともなく歩むうち、まともな日差しを一つ結びのうなじに感じて、ふいと日傘をさしてこればよかったと後悔したものの、真夏はこんなもんじゃない、それにすぐに着いちゃうし、と気を取り直して、そのままてくてく進むうち線路を渡り、左をむくとこちらへの行き帰りに時折立ち寄るパン屋の看板がつつましく立っている。
ためらう間もなく足を向けかえて、その立看板まで歩み寄り、店へと向き直るとしなやかな全身が硝子窓に映って、もともと短くもないけれど、ぴったり合ったワイドパンツのおかげですらりと脚長になった今日の自分に里菜は思わず微笑みかけて、しばしぽっとなるうちすっと我に返った。
にわかに頬を染めながら、店員と目が合うより先にくるりと踵を返した里菜がたちまち思い出したことは、去年の今頃、同じようにどこかの店の硝子窓にうつった自分に惚れ惚れとしたことで、それは白いワンピースを着て表が白で縁が黒、裏がベージュの日傘をさしている姿なのだけれど、あれは確かにぜひともこの格好をしてくれと彼が命じたのだ。
ワンピースは白がずぬけて可愛いことはずっと知ってはいたけれど、汚してしまうのが怖いばかりにほとんど素通りしながらも、やっぱり気になって見惚れてしまうままにファッションコーディネートサイトで可愛く着こなした子たちを眺めていたところ、横合いからぬっと顔を寄せてきた彼に、
「きれいな服だね。里菜も着なよ。まちがいなく似合うから」
とせっつかれ、里菜はふいの事にぽっとなってドギマギしつつ、
「そう?」
などとそらとぼけていたものの、その時から弾みだした心は静まることなく週末になるのさえ待ちきれぬのはもちろんのこと。
翌日には学校の講義をおえると共にまだ居残るらしい友人と別れて駅へむかい電車に乗ってデパートを訪れたものの、まさかその日に決められるはずもなく、日をあけずに別の店もまわりにまわって、親身になってくれる店員さんに相談しながら、最後には自分にぴったり合うものを見つけたときの嬉しさ。
それよりも何よりもその白いワンピースを着て彼に初めて会ったときの嬉しさときたら。
それは今に忘れないけれど、でもあまり汚したくはないのと、別に白いワンピースじゃなくても彼はきっと褒めてくれるので、里菜はそれまでのように自分に似合って落ち着くものを着たまま恋人の部屋を訪れたある日の事、彼がちょっとコンビニへ出た暇にベッドへもぐって柔らかな彼のにおいに抱かれつつ目をつぶるうち静かに起き直ると、ふらふらと立ち寄った本棚のわきに数冊重ねられた大判の書籍が目についたまま、その一番上を手に取りぱらぱらめくるとすぐに美術書であるのがわかった。
彼はいつから絵画を好むようになったんだろうと首をかしげながら、里菜はたちまちその風景に吸い込まれると共にふと心づいて電気を点け、カーテンを打ち開いて片寄せたのち壁に背をもたせて改めてぱらぱらめくりはじめると、一つのページにぴたりと魅せられたままじっと見入ってしまった。
それは白いドレスを着て日傘をさした女性が白い雲の浮かぶ青空を背景にした色彩豊かな丘に立つ絵なのだけれども、人物は風景に浸透するようなタッチで描かれており、顔さえ周りと同じようにぼかされていて、首もとのスカーフは空の色と溶け合いながら風にひらひらなびくようで、里菜はあまりの心地よさにうっとりする間もなく、ぴんと心づいて、彼はこの絵を見ていたから自分に白いワンピースを着せようとしたのだとにわかに合点がいった。
──言ってくれればいいのに。可愛いやつめ。
里菜はふふふと微笑みながら、なお印象派の絵画をながめるうちにわかに既視感を抱いてたちまち共感を覚えたのだけれども、何のことはない。
コンタクトレンズをはずすと視力検査の一番上の形さえわからない裸眼の自分の日常風景と静かに響き合っているのだ。
散乱するひかり、曖昧な輪郭線、風景の穏やかで鮮やかなぼやけ方、風景に馴染んでいく人々。それらはすべて里菜の慣れ親しんできた世界と結びついていた。
──もちろん自分の見えているものなんて安手の芸術にもならないだろうけど、でももし手術で目をよくしたら、一つの世界を永遠に失うことになるのかな?
いつしか投げ出した膝の上に本を閉じたまま、両足のつま先の体操をして、ふと顔を窓へふりむけると、四角に縁取られたその風景は矯正された視力に準ずるようにあくまで明晰で、それから目をとじて彼の顔を思い出してみると、裸眼ほどぼやけてはいないけれど、目の前の景色ほどくっきりしてもいない。
ドアノブが下がる音に驚くと共に、里菜は思わず腰を上げて美術書をもとに戻し、ソファのクッションをぎゅっと抱えたまま、結局真相を訊ねることもできずに一年が過ぎてしまったのだけれど、よくよく考えてみると、彼は他にも自分の知らないところで色々なものを目にしているのかもしれない。
──このズボンだって似合うって褒めてくれるし。
いつもすっきりとお洒落な彼が、ファッションコーディネートサイトをひらいてレディースの着こなしを吟味する姿を想像すると、おかしくはないもののちょっぴり嫌なので、里菜は首を横に振りながら、今だけは暑さも忘れて、ここから程近い恋人の部屋へとすたすた歩み出した。