残国無山河 城春無草木
はじめに、もはやこれからの日本では冒頭の詩が何のパロディか、元ネタを誰が書いたのか、そして現代日本語ではどう訓読して解釈するのかなどわかる人はいなくなってしまうのだろうか…なんて悔やむ必要はない。すぐ後で元ネタをバラしてあげるから安心したまえ。
「国破れて山河あり」とは、なるほど、平泉澄の下記発言やそこからくる「百姓に歴史がありますか?豚に歴史がありますか?」と表裏一体と言えるかもしれない。歴史が国家やその支配者のみにあり、その下で生き死にを繰り返している民衆は「国」からも「山河」からも度外視された、「歴史のない」存在、すなわち「獅子」「虎」ないし「鳩」と同等と看做すというふうに読み解くともできよう。
しかし、表題のパロディのような状況はいかがだろうか。そこに住む民衆は「山河」の下に暮らし続けてきても、国家や支配層の利益や、もしかしたら外国のために「山河」ごとおざなりにされるというのか。
これが現在進行中なのが現在の日本である。
下記リンクのブログのように、その「山河」を民衆が目先の利益に囚われただの騙されただの、もしくはやむを得ず自ずから手放したという話もあるだろう。
しかし、引き続き民衆が「山河」を自らの意思で手放すならまだしも、彼らと話し合うどころか何の熟慮も確認も無しに政府がゴリ押しで進めていたというのなら、タイトルのような状況になっていくと言えるんでないかい?
私は熱心なエコロジストでもナショナリストでもない(というか、そう名乗るべきではないという自覚はある)が、自国民の生活をおざなりにしてこうした政策を続けていくというのは、なかなかどこへ行っても嫌な未来しか見えてこなくなるのではなかろうか。