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「『後藤明生文学講義CDを聴く』というイベント」について(3)
中村博保先生のこと
話がまたしても脱線しますが、「吉野大夫注」(のちの「吉野大夫」四章)で、「『吉野大夫』は谷崎潤一郎の『吉野葛』ではないかという説」を唱えた知人は、中村博保氏ではないかと勝手に思っている訳ですが、中村氏は私の高校時代の国語教師(と言っても一年間だけ)でもあり、ゴトウメイセイ氏のことを教えてくれた恩師でもありました。
中村氏いわく、「僕の友人に四回も芥川賞候補になりながら四回とも落選した作家がいて、ゴトウメイセイというんだが 」とのことで、神保町の書泉グランデに行って「ゴトウメイセイという作家の本はありますか」と聞いたら、文芸書コーナーに案内され、そこにあったのが『笑い地獄』『何?』『書かれない報告』の三冊で、その中から最新刊の『書かれない報告』を買ったのが、後藤明生文学との出会いでした。(『私的生活』はその後、古書店で入手しました。)
明生文学は、どの作品から読みはじめるかによって印象(評価)がガラッと変ると言われますが、『書かれない報告』の「無名氏の話—後記に代えて—」は、私にとっての、まさに「楕円ショック」で、世界の見方がガラッと変わった気がしました。
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後藤明生と中村博保
中村博保氏については、例えば「文体」の同人後記に
秋成論の中村博保氏は静岡大助教授で、『雨月物語』を方法論的に論じて来たラジカルな学究である。氏の「異化」理論は昭和三十年代の論文に早くも見えている。(後藤明生)
と紹介されていました。又、「新早稲田文学」の表紙にも、中村比呂保という名前で登場していました。
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(「新早稲田文学」の表紙には後藤明生、中村比呂保の名前がある。)
又、お二人の略歴を比較すると、
中村博保(なかむらひろやす)1932年(昭和7)、東京に生まれる。早稲田大学大学院文学研究科(日本文学専攻)修士課程修了(芝学園・暁星学園教論から静岡大学教育学部教授をへて、富士フェニックス短期大学日本語日本文学科教授・副学長を務める。静岡大学名誉教授。1997年(昭和9)11月没。
主著論文—『雨月物語評釈』(共著)角川書店、『英草紙・西山物語・雨月物語・春雨物語』(共著)日本古典文学全集48〈小学館〉、『近世歌文集 下』(共著)日本古典文学全集68〈岩波書店〉、『いかに読むか記号としての文学』『現代小説を狩る』(いずれも共著)以上、中教出版。
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後藤明生(ごとうめいせい)1932年(昭和7)、 旧朝鮮永興生れ。本名明正(あきまさ)。早稲田大学露文科卒。卒業後、博報堂、平凡出版(現マガジンハウス)勤務をへて文筆生活にはいる。自己の内面を追求する「内向の世代」の作家のひとりといわれる。昭和52年「夢かたり」で平林たい子文学賞。現代小説の方法的模索を執拗につづけ、56年「吉野大夫」で谷崎潤一郎賞、平成2年「首塚の上のアドバルーン」で芸術選奨。平成元年近畿大教授。平成11年8月2日死去。67歳。
と、二人は同年に生まれ、同時代を生きた盟友であったことが分かります。
又、明生氏は「秋成の〈悪霊〉たち—『雨月物語』」という、やや長いエッセイで、中村博保氏の『寓言論』を紹介しています。
(『寓言論』は、小説「ひと廻り」(『笑坂』所収)などにも登場し、明生文学の原動力ともなる重要な理論かと思います。)
そもそもわたしと秋成とのめぐり合いというか、結びつきに関しては、昭和三十年当時、同人雑誌に詩を書いていた中村博保の名を挙げぬわけにはかない。彼はのちに大学院へ進んで学究となり、その師であった鵜月洋氏が手がけながら急逝によって中断された『雨月物語評釈』を書き継いで完成させた。その後わたしは中村の紹介によって、高田衛、中野三敏等の、若き秋成研究家を知り、彼らの研究論文の幾つかにも接する機会を持ったが、昭和三十年当時のわたしは、ゴーゴリの『外套』における、アカーキー・アカーキェヴィッチ・バシマーチキンの幽霊につきまとわれていたのだった。そこへ『雨月物語』の幽霊たちが、あらためて紹介されたわけだ。
(中略)
「しかし秋成の独自な点は〈真言・そら言〉というふうに〈真言〉(事実)に対置して考えられていた〈そら言〉に、単なる事実性からの解放という虚構以上の意味を与えた点にあります。つまり『ぬば玉の巻』の書き方からも分かりますように〈そら言〉は〈真言〉に対立するばかりではなく、〈まめごと〉(公に役立つこと)と対立して〈いたづらごと〉としてのニュアンスを背負わされているのであります」
と中村は『秋成の物語論』の中で書いている。これもまた難解な論文であるが、そこには〈発憤〉ということばも出てくる。つまり〈憤り〉の〈外化〉(これもまたむずかしいが、要するに形を変えたもの、あるいは形を変えさせる方法)が〈そら言〉だというのである。秋成の〈憤り〉が、単なる政治的なものでなかったのはもちろんだろう。しかし、かといってそれが、〈時代〉とか〈体制〉とかいったものとぜんぜん無関係でもなかったところに、秋成の複雑さがあるようすだ。そしてその複雑さは、少なからず彼の、あの時代における存在の仕方と無関係には考えられないようである。
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『雨月物語』と『吉野葛』の関連事項
後藤明生著『雨月物語紀行』の「蛇性の婬」の項に
さていよいよ私たちは宮瀧へ向った。宮瀧も『吉野葛』に出て来る。宮瀧の柴橋の下の大きな岩の上で、小説家の「私」が学生時代の旧友津村から身上話をきく場面である。ただ、不思議に思うのは、そこで「蛇性の婬」の話が一行も出て来ないことだ。
確かに『吉野葛』は『雨月物語』のために書かれたものではない。作者のもくろみは、吉野の奥の方で密かに「南朝様」と呼ばれているらしい南朝の末裔の伝説をさぐることにあった。そのための吉野行だったのである。また、この作品が発表されたのは昭和六年であり先に紹介した佐藤春夫の「あさましや漫筆」は大正十三年である。そこには、最初『雨月物語』中の傑作を「蛇性の婬」だとしていた潤一郎が、のち「菊花の約」第一等とする春夫説に同意したように書かれている。その手前もあって、『吉野葛』では敢えて「蛇性の婬」に一言も触れなかったのかも知れない。
とあります。
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因みに高田衛氏の「「蛇性の婬」の系譜―秋成・鏡花・中上健次」によると、「谷崎潤一郎は、大正十年(一九二一)頃、映画芸術運動にかかわるなかで、「蛇性の婬」の映画化をはかり、実際にこれを実現している。谷崎は台本を書いた(脚色と称している)」そうで、「映画化というかたちで行われた、谷崎のこのような芸術的な表現行為も、今後もうすこし注目されてよいと思われる。」とのこと(高田衛『女と蛇 表徴の江戸文学史』筑摩書房1999.1.10、p.27)。「蛇性の婬」は、その展開において『吉野葛』には、馴染まなかったように思われます。
(高田衛氏(1930.4.17 - 2023.7.5)は、日本近世文学研究者で、中村博保遺稿集『上田秋成の研究』や『後藤明生コレクション』の発刊にもご尽力頂いたそうです。)
又、後藤明生氏による現代語訳『雨月物語・春雨物語』(1980.4)にも、中村博保氏と高田衛氏の解説・関連解説が掲載されています。
後藤明生「雨月物語」
白峯 菊花の約 浅茅が宿 夢応の鯉魚 仏法僧 吉備津の釜 蛇性の婬 青頭巾 貧富論
後藤明生「春雨物語」
二世の縁 死首の咲顔
宗谷真爾 特集口絵「怪異絵の系譜」
中村博保 解説「雨月物語・春雨物語と上田秋成」
高田 衛 関連解説「怪奇文学の系譜」
大原富枝 エッセイ「情念の凝集」
種村季弘 エッセイ「二つの中心」
神谷次郎 古典の旅「雨月物語の旅」
〈現代語訳「雨月物語・春雨物語」月報 〉
後藤明生 「訳後雑記」
松田 修 「秋成と近代作家たち―北原白秋・谷崎潤一郎」
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後藤明生氏の芥川賞四回落選のエピソード
「文学が変るとき」(「(2)文学が変るとき」)というエッセイに、
わたしは昔、四度芥川賞の候補になり四度とも落選した。落選作は『人間の病気』(昭和42年上期)、『S温泉からの報告』(43年上期)、『私的生活』(同下期)、『笑い地獄』(44年上期)である。そしてその後は候補にもならなくなった。もう一昔半以上前の話で、わたしは三十代の半ばであった。(中略)
そして昔、当時最長老であった芥川賞選考委員から頂戴した選評を、一つだけ思い出した。曰く「読んでただくたびれただけであった」
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とありますが、これは、第60回芥川賞候補一覧の以下の選評を示すものと思われます。
「私的生活してきせいかつ」(『新潮』昭和43年/1968年9月号)
候補者 後藤明生 男36歳
選評の概要
永井龍男 男64歳 ■(中立的な反対、賛成・態度不明から最終的に反対、長所も認めるが結果的に反対)
「読了するのに相当な努力を要した。力作には違いなかろうが、私の得たものはほとんど疲労だけだった。」
中村博保氏の授業の宿題には、「小林秀雄の『無常という事』を○○字以内で要約せよ」とか、三島事件(1970.11.25)の際には「事件に関する見解を(丸山眞男の「である論理」と「する論理」に沿って)纏めよ」など、刺戟的な話題が多くありましたが、後藤明生「文学講義CD『吉野葛』」の内容を纏めるとしたらどんな内容になるのか、『小説—いかに読み、いかに書くか』の「エピローグ—「話し言葉」と「書き言葉」」などを参考にして考えてみたいと思います。
(続く)