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「『後藤明生文学講義CDを聴く』というイベント」について(6)

後藤明生氏は、1982年8月に『女性のための文章教室』、1985年9月に『自分のための文章術』という本を刊行しています。これは『婦人公論』に連載した「文章教室」をまとめたもので、前者は1980.1-1981.2の二年分二十四篇、後者は1982.1-1984.12の三年分三十六篇が掲載されています。

『女性のための文章教室』(中央公論社1982.8)
『自分のための文章術』(三省堂選書120、1985.9.20)

また、明生氏は、1979年4月には早稲田大学第一文学部文芸学科の非常勤講師を一年間つとめましたが、同時期にNHK文化センターからの依頼による「文章教室」の講師をつとめました。

講談社現代新書『小説-いかに読み、いかに書くか』は、NHK文化センターでの「文章教室」(1981.1~1982.3)で話したことをもとにして書き下したものです。
「文学講義CD『吉野葛』(1982.4.30)」はその続きですが、「文章教室」はその後もしばらく続いていたようです。(小説『この人を見よ』参照。)

『小説-いかに読み、いかに書くか』(講談社現代新書420、1983.3.20)
『この人を見よ』幻戯書房2012.8.2

「文章教室」あるいは「文章講座」

『婦人公論』誌上の「文章教室」は、「編集部から選ばれた十通前後の投稿原稿が運ばれてくる。わたしは毎月それを読み、中から一通を選んで、いわゆる添削をする。それから短い批評文をつけて編集部に返す」(『女性のための文章教室』p.3)というものでした。

わたしが投稿原稿を選ぶ基準は、文章の巧拙ではありません。どんな内容、どんな文章であっても、どこかに「現代の日本人の生活」というものが反映しているもの、を一応の基準にしております。それと、出来るだけ各年齢層からから、という考え方です。
そしてわたしは、選んだ一篇(五枚)の原稿を添削し、短い批評をつけるわけですが、やっているうちに、次のような疑問が生じました。すなわち、例えば十代なり二十代の女性の文章に対するわたしの添削、批評が、果して四十代、五十代、その他の年代の女性にとって役に立つだろうか、という疑問です。
(中略)
もちろんこれは、わたしの文章教室が、実際に誰かの役に立っているかどうか、とは無関係の話です。本当は役に立っていないのかも知れませんが、とにかくわたしは、そこに出来るだけ各年代層の文章を取り上げることにしています。どんな文章でも、それは時代の産物であり、こわれたり乱れたり、混り合ったりして自己増殖されるものだと思うからです。(中略)つまりわたしは、「いい文章」とか「悪い文章」とかいった分類は無視して、もっとアナーキーに考えているわけで、例えば「あなたが、こういうことを、こういう文章(文体)で書きたいのであれば、こういうふうにも書けるのではないですか」という添削であり批判をしているわけです。そういう「もう一つの目」をつけ加える、ということです。
(中略)
NHK文化センターの講座では、一切文章は書かせません。テキストを使って、専ら読むことをすすめています。詳しくは『小説—いかに読み、いかに書くか』に書いたので省略しますが、要するに、いろいろな小説を読むことによって、自分に似たものを捜すことが大事だと思うからです。そうすることによって、自分だけが「特殊」だというナルシシズムから抜け出すことが大事だ、と思うからです。

「女性の文章について」(「マダム」1985.5、『もう一つの目』p.132-135)
『もう一つの目〈エッセイ集〉』(文藝春秋1988.3.30)

アメリカの大学には、現役の作家が教授や講師になって、小説の実作指導をする学科があることは、在学中からわたしも聞いて知っていた。同時に、果して小説を教えることができるものだろうか、という疑問もあった。わたし自身にもあったし、まわりにもあった。同人雑誌をやったり、将来、小説を書きたいと思っている連中の中に、この疑問は大きかったようである。
それはたぶん、自分は人から教えられて小説を書くのではない、自分だけの才能と自分だけの個性で書くのだ、という自負が強かったためだと思う。小説は人から学んで書けるものではない、という考えである。学んで書けるものではないとすれば、当然、教えることはできない、無意味だ、ということになるし、たしかに小説というものには、そういう領域もあると思う。
(中略)
ただ、なぜ小説を書きたいのだろうか、という問い(自問も含めて)に対して、それは小説を読んだからだ、、、、、、、、、、という答えはあまりきかない。きかないだけでなく、わたし自身、人からたずねられて、そう答えたことはなかったと思う。(中略)理由はおそらく、忘れていたか、あまりにもあたり前すぎて答えにならないと思ったか。そのどちらかだろうと思う。それとも、あまりにあたり前すぎるために、忘れていたのかもしれない。
早稲田大学の文芸科から講師の依頼があったとき、わたしはそのことを思い出した。もちろん大学の方からは、とくに注文らしいものは何もなかった。またわたし自身、自分流に小説を書いている一小説家であって、研究者でもなければ、文芸学者でもない。大学の方でも、とにかく週一回《十二時半~二時》創作体験のようなものを自由に話してくれれば、ということだった。
(中略)
しかし、わたしはその方法は採らず、テキストを決めて読むことにした。なぜ小説を書きたいのだろうか。それは小説を読んだからだ—という形で、「読む」ということと「書く」ということを、結びつけてみようと思ったのである。すなわち「読む←→書く」という関係である。

「小説を書くことは読むことからはじまる」(『小説-いかに読み、いかに書くか』p.7-10)

さて、早稲田大学の文芸科では、テキストに『雨月物語』の中の一篇「吉備津の釜」を使った。『雨月物語』が、単なる傑作怪談であるだけでなく、日本文学史中の最高峰の一つであることは、いまさら言うまでもないと思うが、たまたまわたしは、その口語全訳(学研版現代語訳「日本の古典」19)を完了したところであった。テキストを選んだのはそのためもあったが、それだけではない。その他の理由は、次の二つである。
一つは、九つの怪談からなるこの物語が、『今昔物語』『保元物語』『平治物語』『太平記』、浄瑠璃、謡曲その他のわが国古典、また『剪燈新話』『聊斎志異』『古今小説』『醒世恒言せいせいこうげん』その他の中国古典の変形、翻案、つまりパロディーであること。
次は、安永五年(一七七六)に刊行されたこの小説を読むことによって、二百年ちょっと前の日本語、日本文学というものと、現在われわれが読んだり書いたりしている日本語、日本文学とが、どのくらい違うものか。その変化の激しさのようなものを実感することは、小説を読んだり書いたりする上で、けっして無駄なことではないと考えたからであった。
(中略)
そして、文化センターでも、早大文芸科と同じ方法をとることにした。理由もまったく同じである。ただ、こちらではテキストに『雨月物語』の中の「浅茅ヶ宿」を選んだ。
(中略)
もちろんわたしは、学者ではないから、『雨月物語』評釈をやったのではない。また途中に、わたしがここまで書いてきたような、「読む←→書く」の関係についての考え方を挟んで話した。最後まで残った受講者は、その考え方に興味を持ったのだろうと思う。

「小説を書くことは読むことからはじまる」(『小説-いかに読み、いかに書くか』p.15-17)

「読む」=「充電」の体験

わたしは、実作指導に反対する者ではない。それはそれで、充分に意味のある方法だと思う。小説を「書く」ことが「放電」だとすれば、小説を「読む」ことは「充電」だといえる。実作指導は、いままさに「放電」したい衝動にかられている何ものかに、適切な方法、技術を与えることだからだ。
そしてそれは、いわゆるソクラテスの「産婆術」にも通じるところのある方法だとも思っているが、わたしは「放電」よりも「充電」の方に、重点を置く方法をとったのである。もちろんそれは、いわゆる名作鑑賞といったものではない。名作鑑賞はそれ自体また別の意味を持っているが、結局は受け身の方法だと思う。それに対してわたしのいう「充電」は、読むということを「受け身」ではなく、書くことと対等だと考える読み方である。
対等どころか、あるときは、むしろ書くことよりも、エネルギーを必要とするかもしれない。というのは、先にも書いたように、小説にはどうしても一般化、普遍化を拒絶する領域がある。才能、天分、個性などがそうであることは先に書いたが、そこにもう一つ、いわゆるインスピレーション(霊感)と呼ばれるものを、加えることができるだろう。
(中略)
そしてわたしのいう「読む」=「充電」とは、そういった領域を体験した上で、さらにそこから一般化、普遍化できる何ものかを「読みとる」という意味である。また、あるときには「充電」の方が「放電」よりもエネルギーを要するかもしれない、といったのもそういう意味である。

「小説を書くことは読むことからはじまる」(『小説-いかに読み、いかに書くか』p.17-19

(続く)

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