魔の刻(とき)
とある家中に、※※九兵衛という侍がいた。炎暑のころ、役所に出て政務をとったが、連日の過労のうえ、ひどい暑熱のために気分がすぐれない。夕刻になってようやく勤めを終え、屋敷へ帰りつくと、「お帰りなさいませ」と玄関先にて妻女が出迎えてくれたのだが、見れば、なんと牛の顔である。しかもただの牛ではなく、血走った巨眼を剥いた、いわゆる牛頭(ごず)の顔なのだ。九兵衛もとより驚愕し、思わず腰の刀に手を掛けたが、その後ろに控える下女をとっさに見やると、こちらは真っ赤な馬頭(めず)の顔だった。いずれも体は常のまま、見慣れた着物を身につけており、顔のみが大きく、異形なのである。それだけにかえって気味がわるい。
(これはいかなる仕儀なるや……。いや、下手に騒いで仕損じては武士の名折れ。まずは落ち着け)と心中にて呟き、「うむ」と一言だけいって座敷へと通った。ややあって、いつものとおり夕餉の膳が運ばれる。下座に居並んだ子供らを見れば、息子も娘も、顔だけが、みな角を生やした小鬼である。だれひとり人間の顔をした者がない。
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