暗殺者のアリア
かつて足繁く通いつめていた界隈に、久しぶりに行った。ずっと気にかかってはいたが、いざ出向いたらあまりの激変に悲しくなるだろうと思ってなかなか足が向かなかったのだ。果たして、そうだった。洋書と文学書をぎっしり置いていた古書店も、蝶ネクタイの店主がいたカフェも、珍しい缶詰を取り揃えていた輸入食料品店も、妖しい幻想絵画専門のギャラリーも、ジャズの輸入盤中心のレコード屋も、みんなありふれたチェーン店に変っていた。面白くもなんともない。10代の終わりごろから20代の半ばにかけて、ここを歩くたび私はパリの裏通りに紛れこんだつもりになっていたのだ。むろんパリなんて行ったことはなかった(今でも行ったことないが)。現実のパリの裏通りがそんなものかどうかも知らない(たぶんぜんぜん違うんだろう)。しかし当時の私はそう夢想するだけで十分楽しかったのである。
今ここに立っても、たとえ夢想だろうと妄想だろうとパリなんて頭に浮かばない。ぞくぞくするような文化の香りや、謎めいた雰囲気なんてどこにもない。コンビニやハンバーガー屋やコーヒーショップや量販店のならぶ、うすっぺらな、ありふれたストリートである。
ただ、映画館だけはまだあった。しかしこれも間もなく取り壊されるとのことで、そもそもその話を聞いたからこそ私はここを再訪したのだ。やむを得ぬことだとは思う。3D装備のシネコンが当たり前となっている今、アンチ・ハリウッドを貫くこのような単館がよくぞこれまで持ちこたえてきたものだ。むしろそのほうが驚きである。いつかはこうなる。その「いつか」がついに来たということだ。
私はここで生まれて初めてゴダールを知った。「ゴダールのマリア」だ。帰り道、世界がまるで一変して見えたのを今でもよく覚えている。荘重な叙事詩のようなテオ・アンゲロプロスを初めて知ったのもここだ。今やすっかり大家となったジム・ジャームッシュの出世作「ストレンジャー・ザン・パラダイス」のオフビート感覚に興じ、ヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」の衒学趣味に酔い痴れ、はたまた瑞々しい象徴詩のようなタルコフスキーの……。
いやよそう。並べていてもきりがない。
閉館はもう少し先だが、この劇場で掛かる映画はこれが最後ということになる。記念すべきその作品は、「暗殺者のアリア」というタイトルだ。オーストリア映画らしい。オーストリア映画、というのは意外と未体験かもしれない。客は多かった。大半が私とおなじく昔を懐かしんでの中高年とお見受けしたが、若い人も少なくない。こういう若いもんがいるかぎり日本はまだまだ捨てたもんじゃないな、と訳の分からない感慨に耽りながら、私は座席についた。指定席ではない。券を買って入ってから自分で勝手に座るのである。思えばこういうのも久しぶりだ。もう機会はないかもしれない。なんだかんだと言いつつも、私だってネット時代に慣れちまったのだ。
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