ヴァルツバルトの星まつり
隧道の中は、いつものように薄暗く、ひんやりしていた。向うがわから差し込む光は、闇を截然と区切るのではなく、微細に闇と混じり合っていた。先刻までの夏の日盛りが、まるっきり嘘みたいだ。彼はしばらく佇んでいた。スニーカーの爪先に目を落とし、ジーンズのポケットの中でわけもなく右手の指をもぞもぞ動かしたりなどしたあとで、また歩き出した。
コンクリの地面に靴音は響かない。しかし空間には何かの音が籠っていた。それは鼓膜というより全身の皮膚で感じ取れた。ひとつの生き物は、ただ息をして、ゆるやかに前に進んでいるだけでたくさんの音を出している……。しかも、ふだんはそのことに気づきもしない。今は、自分のからだの発する音を、自分のからだが聴いていた。しかし、それとはまた別の物音も混じっているようだ。静謐の底に多彩なハーモニーがあった。光は一足ごとに膨らんでいく。それが視界いっぱいに達し、ぱちんと弾けると、もう外に出ていた。
抜けてしまえば、彼女の部屋まではすぐだった。両脇につらなる軒の低い家々は、じっと沈黙を保っていたが、彼には見張られているように思えた。それもまたいつものことだった。神経のせいだ、と自らに言い聞かせて気を落ち着かせる。それもいつものことだった。何度となく行き来しても、一向に慣れることがない。それにしても、なぜこの街区はこう静かなのだろう。子供の声すら聞こえない。
足首に鉄の錘を付けて、坂道を上っていくような心持でいよう。そう思ってはいても、ともすればスニーカーは前へ前へと出たがっている。そんな姿勢は、二十代の半ば頃までなら好もしいかもしれないが、自分の齢だと浅ましいだけだと彼は思った。自分が浅ましいのは構わないけれど、そのせいで彼女のほうまで卑しく見えてしまうのは許しがたい。
初めての夜、彼女は自らをジュネと名乗った。ジュネちゃんって呼んで、と言ったのだ。たぶん本名ではないだろう。それはどうでもよいことだ。部屋に入れば彼女と彼しかいない。そこは社会から切り離された場所だった。たいていのことが、そこでは許されるはずだった。
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