546.【ソロ活】第76回正倉院展&エドワード・ゴーリーを巡る旅展(2024.11.1)
今回の正倉院展で、いちばん響いたのは、古文書だ。それも、すごい人が書いたすごいものではなく、当時のお役人が書いた事務的な通知文のようなものや、戸籍。公設市場で売られているもののリストや、戸籍に掲載された家族構成や名前、年齢、性別など。
それは、その時代に生きていた民の暮らしや姿が伺えるもので、人々が生きて、生活していたこと、歴史が続いていることが実感できて、とてつもなく感銘を受けた。
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エドワード・ゴーリーの世界は、素敵だった。
展示会場内に、絵本が読めるスペースがあり、気になっていたタイトルを、ほぼ読むことができ、嬉しかった。「不幸な子供」を始めとして、子供が悲しい想いをする物語や、不気味で不条理な物語が多いのだけど、ぎっしり描きこまれているのに余白を感じるゴーリーの絵は、言葉でないものが響いてくる。
(本文より)
◆正倉院展チケット取得まで
◆遅刻の功名
◆エドワード・ゴーリーを巡る旅
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◆正倉院展チケット取得まで
正倉院展の季節が到来。会社員にとっては、月末月初という、報告や支払業務の締め切りが重なり、繁忙このうえなく、「なんでこんなに休みにくい日に開催するのだろう?」という日程だ。しかも会期が短い。超混雑。展示されている品々は小さく、細かい細工のものが多いので、近づいてガラスに張り付くようにしなければ見えず、なかなか列が動かず、人波で床さえほとんど見えない状態という記憶しかない。しかし、今年は行くと決める。
ホームページでチケットを確認すると、日時指定で購入しなければならず、30分ごとに1時間の区分枠なので、すぐには決められず、いったん保留。
通常のチケットのほかに、〈研究員レクチャー付き観覧券〉と、〈VR「正倉院 時を超える想い」特別上演会付き観覧券〉があり、レクチャー付きの鑑賞券は、すでに完売だった。
せっかく行くので、事前に解説を聴きたいと思い、特別上演会付き観覧券を購入することに。
開催は3日間で、1日6回の上演のため、正倉院展前後の散策計画とあわせて、何時ごろ鑑賞するのがよいか、近鉄奈良駅への到着時間なども確認しながら、あれこれ悩む。
ほかにも行きたい場所がある。
ならまちにある、つなぎを使わない十割蕎麦を出してくださる「玄」というお蕎麦さんの、〈蕎麦の実を外殻のついたまま石臼で挽いた、挽きぐるみの田舎蕎麦〉が食べたくて、開店時間の11時30分から蕎麦を食べ、正倉院展会場に向かうと、何時ごろになるだろうか? と思ったり、猿沢の池近くの、猿田彦珈琲のお店にも寄りたいと思ったり、興福寺北円堂にいらっしゃる無著(むちゃく)と世親(せしん)というお坊さんの立像に久しぶりに会いたくなって調べたら、ご本尊の弥勒如来坐像が修理に入っているため、秋の特別公開は行わないとわかって、がっかりしたり。
近くの県立美術館で開催している「特別展 エドワード・ゴーリーを巡る旅 ―美しく怖くて愉快、現代を生きる大人のためのおとぎ話(奈良展)」にも行きたくて、こちらが17時までなので、16時までには入館したい…… などと思いながら、パズルのようにタイムスケジュールを組み合わせてみた結果、「玄」で挽きぐるみの田舎蕎麦を食べて、特別上演会付き正倉院展とエドワード・ゴーリー展を観覧するのは、無理なことがわかり、蕎麦をあきらめることに。
前日に遠出をする予定があるので、朝の出発時間に余裕を見て、11時開場の特別上演会付き観覧チケットを取得。
そうして迎えた当日……。
◆遅刻の功名
ソロ活のいいところは、すべての行動の全責任は自分で完結し、誰にも迷惑をかけないこと。
正倉院展当日、早くに目覚め、余裕で準備ができていたのに、なぜか、出発時間を勘違いしていて、近鉄奈良駅に到着したのが開場時刻の11時。
ホームから出口まで駆け上がり、国立博物館をめざして、ダッシュダッシュダッシュ。この日は雨が落ちそうな雲が広がっていて、暑くて汗だく。必死で博物館前に着くと、ふだんの展覧会ではありえない別世界がひろがり、たくさんのテントが設営されている。荷物預かりや、コインロッカーの特別設置場所の表示が見えた。いくつもの区画があり、チケットの指定時間によって、並ぶ場所が決められている。「最後尾」のプラカードの前には、とんでもない人の列。
(すでに始まっている上演会のチケットを持っている私は、どうすればいいの!)
近くにいる誘導のお兄さんに尋ねると、「上演会のチケットの人は左の列へ」と言われ、その列を見ると、もはや誰もいない。無人。もう、開演時刻を過ぎているので、誰もいないのだ。流鏑馬の馬場のようにまっすぐな通路が入口まで続いている。
右の列にぎっしり並んでいる人たちの横を、ぶっちぎって走る、走る、走る。
映像作品の上映なので、遅れたら入れてもらえないかもしれない、と思っていたけれど、講堂の入口でチケットをみせると、静かにドアを開けて案内してくれて、足元をライトで照らしながら、一番うしろの「関係者席」と書かれたシートに座らせてくれた。
遅れてきて、ヒンシュクなのに、まわりのお客様からみれば、「関係者!」の私。
席にすわるやいなや、汗が滝のように噴き出してきて、困った。
上映作品のナレーションが美声で、ききほれていたら、なんとライブ。ご本人が壇上に現れて説明を始めたので、びっくり。
会場は定員180名で、ほぼ満席。出入口は後方にしかないので、上演会が終わると、順番に出ていくことになる。最後列に座っている私は、1番に退場でき、出口左にあったお手洗いにも1番のり。お手洗いを出ると、長い列ができていた。その横を通って、正倉院展会場へ入場。
(待ち時間なし!)
遅刻したおかげで、上演会入場の待ち時間も、退場の待ち時間も、お手洗いの待ち時間もなく、さくさくと正倉院展に入場できた。
内部はやはり混雑していて、専門家みたいな人もいらっしゃるし、そうでもない人もたくさんいるし、みなさん口々にいろんなことを言いながら、楽しんでいる。
ガラス製の魚形が、とても綺麗で、何度も眺めた。
たくさんの美しいもの、精緻なもの、技巧を凝らしたものを鑑賞したけれど、今回の正倉院展で、いちばん響いたのは、古文書だ。それも、すごい人が書いたすごいものではなく、当時のお役人が書いた事務的な通知文のようなものや、戸籍。公設市場で売られているもののリストや、戸籍に掲載された家族構成や名前、年齢、性別など。
それは、その時代に生きていた民の暮らしや姿が伺えるもので、人々が生きて、生活していたこと、歴史が続いていることが実感できて、とてつもなく感銘を受けた。
一通り鑑賞してから、最初に戻って、もう一度、鑑賞する。時間指定をしているせいか、次の時間帯の人の入場がまだだったようで、うそのように人がいなくて、ゆっくり、いろんな角度から、宝物の数々を眺めることができた。
外に出ると、雨が降り始めている。次の入場を待つ人が列をなし、その次の入場の区画にも、すでに待っている人がいる。
(この人たち、いったい何十分待っているの?)
待ち時間0分で入退場した私としては、来年もまた、上演会付き鑑賞券を買って、ぎりぎりに入室し、講堂では可能な限り後方の座席に着席しようと決める。
◆エドワード・ゴーリーを巡る旅
副題が「―美しく怖くて愉快、現代を生きる大人のためのおとぎ話」というエドワード・ゴーリー展。
これまで、絵本を手にとったこともないし、エドワード・ゴーリーの名前も知らなかった。
でも、今回、作品展のポスターやリーフレットになっている、『ジャンブリーズ』という、詩と絵の本の挿画を目にしたときから、魅かれていて、(絶対に観に行く)と決める。
よく知らないで決めたものの、ゴーリー作品の解説を読んでいると、「不幸な子供」という絵本では、次々に不幸なことが子供に起こり、最後に大どんでん返しでハッピーになるというお約束の展開は訪れず、不幸なまま終わってしまう……などと書いてあり、ほかの作品についても、不穏で不条理なことばかりが書き連ねてあり、(え、どういう作家なの?)と引いてしまうけれど、それでも緻密でエレガンスでニュアンスのある画風に魅かれ、観に行く。
正倉院展会場を出るころには雨が強くなっていて、「正倉院」の外構を観に行くことはやめて、県立美術館へ。
エドワード・ゴーリーの世界は、素敵だった。
展示会場内に、絵本が読めるスペースがあり、気になっていたタイトルを、ほぼ読むことができ、嬉しかった。「不幸な子供」を始めとして、子供が悲しい想いをする物語や、不気味で不条理な物語が多いのだけど、ぎっしり描きこまれているのに余白を感じるゴーリーの絵は、言葉でないものが響いてくる。
(図録を買ってしまいました!)
エドワード・ゴーリーを巡る旅展は巡回展で、各会場で展示室の様相も違うので、趣が異なっている。関西発上陸となる奈良では、奈良県立美術館オリジナル展示「エドワード・ゴーリーと日本文化―20世紀アメリカの眼―」が開催されていて、お得感満載。
ジャンブリーズの、ふるいの船に乗った十人と、宝船に乘った七福神の神様たちの相似や、浮世絵などの日本美術に影響を受け、余白、間、モチーフなどを取り入れている作品の紹介がされていて、ゴーリー作品に感じる郷愁は、そのようなところから感じるのかもしれないと思った。
館内に、これまで開催されたエドワード・ゴーリー展のポスターが展示されていて、カメラOKだったので、思わず撮影。
どれもいい。
浜田えみな