104.「傷ついている動物」がいないころ
ざわざわの正体は、
大事に育てられたことを〈認める〉ことに、抵抗するもの。
愛されていることを認めたら、〈負けてしまう〉ような感覚。
それは〈傷ついている動物〉
全身を何重にもくるまれて、愛されていたことを、どうして受け取っていなかったのかな。
どこで、どんなふうにすりかわったのかな。
ていねいに、おいたちをたどってみようと思う。
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OSHO禅タロットで、新月の1枚を引いた。
「虹5 アウトサイダー」
(ずっと出られなかった門から、出ていくんだな)
と思った。実感もある。
(出られなかった門って、なんだ?)
と思い、久々に解説書を読んでみた。
すっかり忘れていたOSHOの言葉に、動揺した。
余白には、
「小さい頃のトラウマの再生を手放すとき」
という、私が書いたメモまである。
(え、この子って、インナーチャイルドだったの?)
「あなたは母親と肉体的にはつながりを断たれてしまった」というOSHOの言葉に、激しく動揺した。
昨日、投稿した「傷ついている動物」にもリンクするのだけど、いつのものなのか、具体的には特定できない、圧倒的な〈分離の哀しみ〉というものが、自分の中にあり、折にふれて浮上してきて、たまらない気持ちになる。
そのことが、今いる場所から変化することの抵抗を生み、〈この場所にとどまりたい〉という気持ちにさせるのだと感じている。
〈今いる場所から変わる=分離=喪失=哀しみ〉
という刷り込みだろうか。
(母体との分離?)
いやいや。それはちがう。
子どもたちを出産したときの、あの、間違った方向に、ぐいぐいぶつかりながら方向を変え、ものすごいエネルギーで出口を目指し、不器用に、がむしゃらに、突き進んできた、あの熱い塊は、どう考えても、はっきりと意志を持って、外を目指していたと思う。
だとしたら。
〈分離の哀しみ〉は、胎児が出ていってしまった、私の子宮の側の記憶なのかもしれない。
生まれてからのことを、ていねいにたどってみようと思っていたので、アルバムをひらいてみた。
私の誕生記念のアルバムの一枚目。
それは、父の生家の前で撮影した両親の結婚式の写真だった。
子どものころ、あたりまえのように見ていたけれど、すっかり記憶から抜け落ちていたので、父と母の姿を、娘のアルバムに載せてくれた母のセンスに、かなり感動した。
二枚目の写真は、生後1か月と記してある。
生まれた次の日に、産婦人科が火事になり、煙にまきこまれて、チアノーゼ状態になり、母はショックで母乳が出なくなり、私はミルクを全く飲まなくて、どんどん体重が減ってしまい、一ヶ月たって、やっと、出生時の体重に戻って退院できたと聞いているので、退院直後なのかもしれない。
大きすぎるおくるみに、毛布と一緒に、ぐるぐる巻きにされて包まれている写真を見て、以前は
「へんなの」
としか思っていなかったが、あらたな感慨が生まれてきた。
〈大事にされている〉という感じ。
次のページにある、寝ている写真もそうだ。これまでは、頭の上に作ってある「ガード」のようなものを見て、
「へんなの」
としか思っていなかったが、
〈守られている〉
と感じた。
頭が寒くないよう、風が当たらないようにしてくれているんだろうなと思う。
布団を頭のまわりに、こんもり盛りあげて、このガードを作ったのは、父だと思う。
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ひめ神カードの講座を学んでいるとき、「くしなだひめ」の両親の名前である「アシナヅチ」と「テナヅチ」のエピソードを聴くと、ざわざわした。
〈足をなでるように、手をなでるようにして、大切に育てた〉
というのが、たまらなく、ざわざわだった。
うらやましいか、ねたましいか、どちらにしても、してもらっていないからだと、卑屈に感じていた。
でも、ちがっていたとわかった。
ざわざわの正体は、
大事に育てられたことを〈認める〉ことに、抵抗するもの。
愛されていることを認めたら、〈負けてしまう〉ような感覚。
それは〈傷ついている動物〉
全身を何重にもくるまれて、愛されていたことを、どうして受け取っていなかったのかな。
どこで、どんなふうにすりかわったのかな。
ていねいに、おいたちをたどってみようと思う。
浜田えみな
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人との出逢いが楽しくなる、名前のことだま🄬。
50音カードを使ったセッションを企画しています。
きっかけは、50音カード講座で講師を務めてくたさった高山仁美さんに、セッションをしていただき、そのトークに心酔したこと。
自分のことは、人に伝えてもらうほうがよいことを実感し、今後、人生の岐路に立つたびに、仁美さんのカードセッションを受け、背中を教えてもらおう! そう決めました。
自分だけでなく、必要とされるみなさんに、ひとりでも多く体験してほしいと思い、グループセッションを企画しています。
ことだま50音に、どういう意味付けがされているのか。
行のテーマや、母音のテーマも、セッションの中でひもとかれていきます。
同じ場にいる3人は、ご縁のあるかたたち。
ほかのかたのセッションも、不思議と自分のテーマと共鳴していることが多いです。
まるで、自分が三人いるみたいで、しかも自分のときより、落ち着いて聴けるので、ぐんぐんしみいります(経験談)
ことだまの音浴で、扉をひらきませんか?
詳細は、コメント欄からリンクしています。