見出し画像

限りある日々を大切に生きよう。でも果たして、それは=幸せなのか。

ADDressというサービスを使って、多拠点生活をしています。ついでに仕事もしていないので、自由です。

今日は「有限」ということについて考えたのでそれを書いておこうと思います。

「有限」を身近に感じる日々

多拠点生活をしていると、常に日常が変化するので、「有限」をいつも隣に感じる生活になります。それはメリットでもあり、デメリットでもあると思うのです。

時間の有限性

この場所に滞在できるのはあと3日だけ。だから、もう1回早起きしてあの朝陽を見に行こう。

この家でこの人とお話しできるのは今日だけ。だから、もっといろいろなことを聞いてみよう。

ルーティンのない環境下で、有限がもたらす「今だけ」という心情とともに生活すると、「万物は流転」し、「一期一会」「今日という日は今日だけ」というようなことを頭ではなく、全身で感じる日々が続いていきます。

ああ。なんて素敵なところ。いろいろな人に会って楽しかった。また来たい。いつ来られるかな。

実際には、何度も同じ場所を訪れることは意外に難しい。無職で、365日自由な私でさえそうなのだから、仕事や家庭生活で忙しい人たちの「また今度」は幻のようであるに違いにないでしょう。

それぞれの人が、それぞれ、気ままに好きな場所で暮らす多拠点生活。そうなると、この場所に行けばこの人に会える、というような確率も低くなる。

私は東京在住ではあるものの、東京にいることはほとんどない。家族や友人たちとも「いつでも会える」がなくなって、大切な人とは、できる限り時間を作って会おうとする努力をするようになりました。

「有限」を感じるということは、一瞬一瞬を大切にすること。

でも同時にそれは切ないこと。愛おしい時間。大切な時間。でもそれが有限であるが故の悲しさ。終わりがあることを理解することでもあります。

お金の有限性

多拠点生活を始めるとともに、無職になったということもあり、お金の収支を管理するようになりました。

長年サラリーマンをしていると、特に私の場合は給与が年俸制だったこともあり、基本的には、毎月同じ額の給与が振り込まれるだけの月が続きます。

日々の買い物は、クレジットカードとか、電子マネーで支払いをするから現金は必要ないので、銀行にもほとんど行きません。おおよそ、生活の中で使う金額は決まってくるので、あまり、何にいくら使っているのか、や給料日を意識することなく、時が過ぎていくというのが日常でした。

無職になった今は、項目別の収支を管理しています。約1年半が過ぎたので、だいぶ無駄を省くようになりました。使っていないサブスプリクションを見直したり、今月は移動が多かったから交通費がこんなにかかってるんだな。とか使途のバランスも見える化しました。

無駄なく、効果的にお金を使えるようになっていると思う一方、自分の持っている資産の有限性が見えることで、逆に不安が増したような気もします。

無職になって経済的な不安が生まれたというよりは、お金の出入りを見れば見るほど、不安になっているのです。

人間として生きるのは、実は悲しいこと

時間やお金の有限性を感じながら生きるということは、悲しいけれど、なんと人間らしいことでしょう。人間らしく生きるということは、実は、そんなに楽しいこと、幸せなことではないのかもしれない。

秋のぽかぽかの陽だまり。縁側の座布団の上で昼寝をしている猫を横目に、そんなことを感じました。猫や、ヤギ(私は猫とヤギが好き)は、時間のことやお金のことを考えることはない。目の前の心地よさを求めて、ひなたぼっこをしたり、懸命に草を食む。幸せそうです。

人は、人として生きるからこそ、そして賢くなればなるほど、様々なものの有限性を理解し、工夫をし、生き長らえるために知恵を使い努力もする。

そして、尊い人ほど、自分のことのみならず、周囲の人のこと、世界のこと、地球、そして宇宙のことまでに思いを馳せて、その「有限」を少しでも長らえるために自分の時間や知恵を使っているのです。

私は、猫やヤギのように、平和に生きたいという欲望を抱きながらも、人として生まれてしまったのだから、「有限」の気づきがもたらす、切なさや心許なさとともに生きようと思います。「有限」を知り、自分のため、人のために知恵を生かせるように生きようと思います。

でも、私はそんなに立派じゃないから、時に、猫やヤギのように生きていこうとも思います。

今夜もよい夢をみられますように。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?