タンパク質を摂ると撮る1
noteの使い方もさることながら、とりあえず時間もないので、私が今取り組んでいる写真作品についてここに記して行こうと思う。
まずは順を追って。
私は写真撮影を仕事としていて、学校も写真学科だし、もっと言えば小学生の頃からなりたい職業がカメラマンだった。そもそもは職業として写真を撮れる人になったらどんなにいいだろう...自由と思ったから。小学生の時点で自分は会社員には向かないであろうという予測がすでにあったのだ。職人になりたいと。
世の中に「職業カメラマン」というものと「写真作家」が居るんだなと思ったのは大学生になってから。私が教えていただいた教授陣は「写真作家」だった。今思えば、最終的には職業写真家になるから、大学生の間はせめて写真作家を見ようと思っていたのかもしれない。とにかく、芸大で大学教授になる写真作家は変な人たちだったから、変というのは刺激的で魅力なのだ。
変な写真作家は結構ギリギリだった。いやほぼ変態だった。それまでそんな人種をあまり目にしたことがない普通の家の子で「ちょっとだけ変な子」くらいの私にはおよびもつかない人たちだった。しかし写真は圧倒的にすごいから大学教授だった。その人たちが切り出してくる世の中の破片のような写真はそりゃすごかった(中にはすごくない人も若干居たが)。そんな人たちを間近でみられるだけでも本当に価値のある時間だった、と今も思う。卒業して20年以上、今もお繋がりがある先生もいて、お亡くなりになられた先生も。根が真面目な私は、先生が「この先の人生、写真という手綱を放したらダメだよ」とおっしゃったので、ひたすら握り続けてきた。それをおっしゃったのは「須田一政」という写真家で日本の写真史上に決して欠かすことのできない人物だ。その先生からの影響は大きい。写真のために生まれてきた人間だと思う。まさに No photo No lifeだった。先生が亡くなられて、その教え子や関係者が集まる機会が1昨年あったが、教え子が軒並み手綱を放していてひっくり返りそうになった。いやひっくり返った。あんなに期待されていた彼も彼女も、あんなに感性が鋭い素晴らしい写真を撮っていたタマゴたちはみんなもう写真家ではなかったのだ。保育士や八百屋、自転車屋さんとか。でもきっと趣味では続けているのだろうと思う。思いたい。
私はというと、卒業して料理専門の写真スタジオに就職しアシスタントになった。不況、氷河期と言われて久しく就職のない時代だったが、アシスタントは20代でしないと後からはできない、スタジオでライティング(光)の知識を得ると得ないでは格段に違うから、とその時なりに冷静に分析していた。あの時の私「エライ!」しかし、アシスタントは「泣くもの、泣かされるもの」というのもまだまだ時代で、途中でスタジオを変わって大阪市内のスタジオも経験することができた。3年ほどいづれも個人事務所だった。一生懸命仕事をしていると「アシスタントさんに」とお仕事いただくようになり、アシスタントもしながら牛歩のようにカメラマンになった。その後、ある会社の写真室に就職したこともあったが、やっぱり集団が無理でフリーランスでお仕事するようになり、でも不安定なので別のアルバイトもしたり、海外に撮影旅行に行って個展をしたりもした。そんな20代だった。
30才で長女を出産した。ま、色々あって詳細は省くが、「出産」というのは課題であり、私には生まれつき病気があってそのままだと出産できないということもあり手術をしたのが21才。出産を人生で通過しなければいけないという呪縛がことのほか強かったように思う。子どもが好きなのでそうしたいと思っていたから嬉しいことだった。そんな妊娠中もずっと先輩カメラマンのアシスタントをさせてもらい、またそのご紹介など有名な洋菓子店の撮影のお手伝いなどさせてもらった。いろんな現場が見られて、これまでの自分も活かせて喜んでもらえて重たい荷物は運ばなくていいよと言われ、気楽でご機嫌だった。
長女出産後もじっとしていられない性分の私は、プロ用の写真現像所でパートタイムとして雇ってもらった。今はもう使う人も少ない4×5と言われる大型カメラのシートフィルム(リバーサル)を現像するお手伝いをしていた。そこにはデジタル対応できなかったおじいちゃんカメラマンやセミプロがフィルムを持ち込むので、それを現像して先にこっそり見て勉強できるという特典があった。須田先生が「手綱を握り続けろ!」とおっしゃったので、出来るだけ写真の近くに居られるようにといつもどこか思っていた。その後、次女の妊娠をきっかけに現像所は匂いがキツ過ぎて(独特の薬品があり)かなり辛かったがギリギリまで通って退職させてもらった。ラジオを聴きながらの気楽なお仕事だった。誰かの仕事の手伝いをしているのは楽だ、責任がないから。それが15年から10年くらい前までの私。
カメラマンというのは自分の名前が出る仕事をしないと。写真 〇〇〇〇と下に小さくでもキャプション書かれてナンボなのだ。と今は思う。
そして写真作家に限らず作家というものは、それをせずには居られない人。写真家なら死ぬその日の朝まで写真を撮っている人のことを言うのだと思う。
私は今、意思のある写真家になるために、「タンパク質を摂取するとは?」→「食べるとは何か?」すなわち「命とは生きるとは何か?」をテーマに写真を撮っている。
なんでそこに至ったのかを5回で書くという自分への課題。
明日につづく。