人は誰かのためになら強くなれる生き物
結果的に父は1年の闘病の末亡くなったのだが
親の死って、自分の人生においてかなり上位の衝撃的な出来事。
しかし誰もが必ず経験する事。
こんな天地がひっくり返るような事が起こっているのに、周りはいつもと変わらない毎日を過ごしてて、何事もなかったようにまた朝がくるんだな、なんてドラマみたいなことを思ったし、毎日どこかで誰かの親が人生を終えている。
人は大切な人の死をめぐり究極的な精神状態を経験することで愛を知り、誰かのために必死になるという尊い体験や感情を味わい、これこそ生きるという事なんだと感じた。
人は誰かのためになら強くなれる。
自分のためには出来なくても、大切な人の為になら頑張れて、何の見返りもいらなくて、自分の中にこんな深い愛があったんだと言うことに驚き、
そして、死というものをリアルに意識したあの瞬間から、同時に私の中で『生きる』という事がくっきりと浮き彫りになった。
なぜ人は生きるのか?死ぬことがわかっているのに何のために生まれて来るのか?
先祖から命を紡いで、その先に何があるのか?
こんな答えのない疑問を今もずーっとずっと、考え続けているような気がする。
何のために生きるかは人それぞれだし、どれだけ考えても、答えは分からないままだけど、ただ一つはっきりしていることがあって、
どう生きるかは自分で決められるという事。
どんな人生を送りたいか?
どうであれば幸せだったと言って死ねるのか?
父が余命を宣告されてからの一年は、家族みんなで必死になって治療法を探して、泣いて泣いて慰め合って、辛いけど誰かのために必死になった。
あの日々は自分の中の宝物だったなと感じる。
あんな日々のように1日1日を必死で大切に生きられたら幸せだな、と思ったのと同時に、
この事がきっかけで、後悔せずに生きるためには正しい知識を得ることが大切で、“正しく選択”する為に、健康や食事、ヨガに興味を持ち、この世のしくみや人間という生き物を探究する旅が始まった。
つづく