見出し画像

父が死んだ。涙が一滴も出なかった

●父の死
4月に父が死んだ。
79歳だった。
九州北部の生まれた場所の、老人ホームで息を引き取った。

父の死を聞いたときの私の感想は、
「戦いが終わった」
父と私の、だ。
心から、こう思った。

●認知症になり病院から特養に
2022年頃から認知症になり、今年に入って急に悪化。

昨年、母から「体の状態が良くない。長くないかも」と聞いて、
急いで準備をして、今年の11月に実家に帰った。

私が九州に戻ったときには、すでに喋れず、排尿もできず、
病院のベッドで複数の管を付けられて過ごしていた。
病室に行っても面会はできず、
父がいる3Fの病室と私たちがいる1Fの面会室を、
看護師さんがzoomで繋いでくれた。
画面越しの面会で、私と姉で「お父さん、帰って来たよ」と声をかけたり、
手を振ったりした。
しかし、父はただ涙を流すばかり。
おそらく、画面にいる私たちが写真なのか、録画した動画なのか、
全くわかっていなかったようだ。
それでも、私と姉は15分くらい声をかけていた。
時折、父から声なき声で
「あー」とか「うー」とか聞こえるけれど、進展はなく
ただただ父の目からは大量の涙が溢れ出していた。

私はそのとき
「これは何の涙なんだろう」と冷静に見ていた。
そして目の前の父に対して
「お父さんの人生ってどんなだったんだろう」と、真面目に考えていた。

そこから5か月経ち、特別養護老人ホームで亡くなった。
看護師さんが健診に行ったとき、心肺停止だったそうだ。

亡くなったことを電話で姉から聞いた。
私は「ふーん」としか言えなかった。
実の父の死を「ふーん、そうかー」なんて人ごとのように思う私は、
親不孝者と思われるかもしれない。
父の死を聞いたときの次女、の正解パターンは、
電話口で泣き崩れて、慌てて九州の実家まで帰る、なのだろうか。
実の親だし、家族のために一所懸命働いてくれた、頑張ってくれたときもあったと思う。
でも、父は50歳で働かなくなったし、話し合いが通じず、決断を迫られる内容になると、妻でも娘でも構わず暴力を振るっていた。


●父について知っていること
九州北部の人口7万人の町で生まれ、学生時代はバレーボールに励み、
就職前に、酔っ払って電車から転落。
頭に深い傷を負いながらも、当時の国鉄に就職。
30年ほど働いたけれど、蓋を開けてみると、
昇進を蹴り、のらりくらり。
蓋を開けてみると、30年間の給料はずっと同じ、20万円。
自分をふくめ、7人家族が食べていける余裕はなく、
祖父母(父の両親)の年金、母のパートのお金をかき集めて生活していた。
余裕はないのに、出世はしたくない。
これ以上、働きたくない、と思ったのか、
今となってはわからない。
でも、自分の負けを受け入れず、認めず、
暗黙知で身内のお金を使っていたのは事実。

父だけの稼ぎでないと子供は生活していけない、
大黒柱は父!
ではないとは思う。
大黒柱でなくても、自分の家族を守っていこう、
不便させたくない、とは思わなかったのか。
思ったのかもしれない。
でも、なぜ途中リタイヤしてしまったのだろう。

仕事も、家族も、父という役割も。

そうこうしているうちに、母はマルチ商法にハマり、
私は小学校6年生からバイトに出る生活になった。

その後、父は50歳で退職をした。

家族の歯車がゆるやかに狂っていったのは、この人が原因でもあるんだろうな、と思った。

パチンコ、寅さん、スーパードライ、落語を聞いて寝る生活。
たまに知り合いのスナックに行くくらいで、盆栽をいじるとか山に登るなど、
健康的と思える趣味はなかったみたい。

●父の謎
1.てんかん
電車から落ちた後遺症か、てんかんがあった。
そもそも、本当に電車から落ちた後の後遺症かもわからない。
でも、お医者さんから家族にはそう聞かされていた。
定期的に脳外科に通っていたのは、てんかんの検診なのか、治療なのか。
電車から落ちた直後には、てんかんが発生するとはわからなくても、
その後の定期検診で判明したのではないか。
てんかんがあると知れば、就職先や母との結婚も違った形になっていたのか。
もっと聞いておかば良かったのか。
でも、娘からそんなことをねほりはほり、聞かれたくないよなあ。

2.退職後の行動
退職後は、ビルの管理人、障害者ホームの送迎車の運転手、僧侶…。
と、いくつかの仕事を転々としたようだが、
続かなかったらしい。
私が驚いたのは、知り合いの寺で修行して僧侶になったが、
首になった、という話。
お坊さんって首とかあるの!?
よほど、素行が悪かったのか。
お父さん、何をしたのか。
気になったけど、聞けなかった。

3.私から父に。毎月の仕送り
2015年頃から、なぜか私から父に毎月数万円、仕送りをしていた。
あの仕送りも、何だったんだろう。
その前から換算すると、かなりの額を父に渡していた。
(お金について書いていると、相当長くなるので割愛します…)
毎月、月末に振り込むのだが、1日でも遅れると
夜中だろうが、明け方だろうが関係なく、電話がかかってきた。
変な時間に電話が鳴ると、お父さんだとわかるので、
ガッカリしながらスマフォを手に取ると、実家の番号が映っていた。
電話には出なかった。
電話かける→拒否→翌日入金→留守電に元気いっぱいの「お金入っちょったぞ!」(意味→お金が振り込まれていたよ)の父の声。
ありがとうと思っているのか。
考えるのもしんどくなったことと、そのお金があればあれこれ買える、
お父さんに渡すなんて勿体無い、と気づいて2022年頃に、勝手にやめた。

自分はやりたい放題。
お金は言えば誰かがくれるもの、と少しでも思っていたことにガッカリ。
でも私、この人の娘なんだよなあ。
怒りの気持ちも出てこず「あーあ」と思って、日々をやり過ごしていた。

こうやって、父のことをまとめていると、
結局、お父さんには、軸がなく、
その場で自分がやりたいことをやってきた。
仕事は真面目にしていたけど収入はそれほどなく、
家ではいばり散らし、自分の気に入らないことになると、
癇癪を起こし、娘と殴り合いもする。
典型的な昭和のおじさんだった。

姉が後日、遺品整理に再び実家に戻った際、
娘(姉と私)からの手紙や、
孫の写真はきちんと机に残していたそう。

元気な時は、私たちのことを思ってくれてはいたのだろう。
でも、そこでも私は、
もらった手紙を大事に保管しておくことと同じように、
ほんの1ミリでも、周りへの感謝はあったのか。
自分が死ぬことは、わかってなかったと思うけど、
せめて、
日常の中で、迷惑をかけたことを素直に謝り、感謝することを
1回でもやってほしかったな、と思った。

私からの仕送りが入っていたときの「ありがとう」の留守電の声。
驚くほど軽やかで、脳みそがないおっさん丸出しだったなあ。

それにしても、私も父へ感謝はないのか!
と思い返すが、
言えるなら
「さまざまな試練を与えてくれて、ありがとう」
これに尽きる。
今となっては、そう思うほかない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?