ぶどう色
冬の、ぽかぽか陽気の日。
「すみません、ここ、M駅ですよね」
年配の女性がバスの運転手さんに尋ねています。
「いえ、ここはまだT駅ですよ」
「まあ、ここ、M駅じゃないの。まちがえちゃったわ、いやだわ」
どういう事情か、私鉄T駅とJR M駅をまちがえてしまったらしい。
降りてみて違うと思ったみたい。ショックだ。
でもこのバスはM駅行きだから、このまま乗って行けば大丈夫なのです。
連れの男性も高齢らしく、ちょっとよろよろしながらバスの前方へ歩いてきます。
「お父さん、ここ座れば」
「いや、お前座れよ」
運転席の後ろの、一段高くなっている座席は、お年寄りには心配だな。
やめたほうが、いいんじゃないかな。
厚意のつもりが、実は、わたしがその席に座りたいと密かに考えていたことに気付いて、はっとしました。
こういう、自分の小さなやましさみたいなものがふいにわかったとき、淡いインクのしみが、水滴でぶわーとひろがる気分を味わいます。
些細だけれど、一瞬暗くなる。
結局、女性の方が席に座りました。
ぼんやりと、その席の方を見ていたら、女性はしばらくして、かばんからスマートフォンを取り出しました。
スマートフォンの色と、ついていたストラップの色は、着ているコートと同じ、ぶどう色。
巨峰じゃなくて、デラウェアみたいな、赤みの紫。
その色、好きなんですね。心の中で言ってみる。
バス車中のできごと。
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