<おとなの読書感想文>アレックスと私
よく、生き物を無責任に飼ってはいけないという意見を聞きますね。
最近ではいかなる事情であっても動物を捨てること、一時の「かわいい」という感情だけで生体を購入することに対して、強く警告する広告もよく目にするようになりました。
動物と一緒に暮らせば、食べ物や排泄の世話をしなければならない。そして生き物はいずれ確実に年をとっていく。
かわいいだけではなく、人間の思った通りにならないことがたくさんある。
その世話を、最後寿命が尽きるまですることができますか?
生き物を迎えるためには、強い覚悟と責任が必要なのですよ。
この意見に、わたしはまったく異存はありません。
しかし、ひとつ思うのは、動物だって一緒に暮らす人間が自分の思った通りにならずにはがゆい思いをしているときがあるだろうな、ということです。立場を動物の側に置き換えて考えてみるということですね。
動物を飼うと色々な面倒事を背負い込むことになります。でも、動物は何も人間に面倒をかけるために生まれてきたわけではありません。
ところで、わたしはあるきっかけから1年半だけ犬と暮らしたことがあります。
老犬で、若い頃はすごくおてんば娘だったらしいけれど、出会った頃にはすっかり落ち着いたおばあさんでした。
彼女がわたしのことをどう思っていたのか、本当のところはわからない。
犬と暮らすのはわたしにとって初めての経験で、付き合い方を知らないから色々と不手際があったかもしれません。
印象に残っているのは夜の散歩に出かけるときのことです。たいていの場合彼女は寝ているので、起こしに行くのだけれど、起こそうとしているのがわたしだとわかると、なかなか起きない。
目は覚めているはずなのに、ぐずって布団をかぶる子どものように、体を起こそうとしてくれません。
これが、彼女が信頼を置いている人の手にかかれば少し体を揺すっただけでちゃんと起きる。
彼女が人を見て判断していることが、よくわかったのです。
何かの縁で出会った人と動物が、お互いの利害や都合の折り合いをつけながら一緒に暮らしている。
時々は不満や不都合を間に挟みつつ、やれやれ、まあ、こういう風にやっていきましょう、と手を打つ。
人と人との共同生活がそうであるように、人と動物の間にも本来は対等な関係があるはずなのです。
そして、その鍵となるのが「コミュニケーション」なのでしょう。
「アレックスと私」
(アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男 訳 早川書房、2020年)
筆者のペパーバーグ博士は子どもの頃から小鳥を愛していて、側にはいつも小鳥がいました。
あるとき、博士が研究対象として選んだのは1羽のヨウム。
アレックスと名付けられたヨウムは驚異的なコミュニケーション能力や学習能力の高さを示し、それまでの科学界の常識を鮮やかに覆していきます。
博士がアレックスと研究を始めた当時、動物と人間がコミュニケーションをとることができるのか、動物に言語能力や認知能力があるのか、というテーマはアカデミックな世界では相手にされませんでした。
ペパーバーグ博士とアレックスの研究にも度々逆風が襲ってきますが、31年という生涯を通してアレックスは様々な可能性を切り開き、世界一有名なヨウムとなります。
いくつもの語彙を習得して話すのはもちろん、単語を組み合わせて言葉を作ったり、「ゼロ」という概念を自ら理解したり、アレックスの能力の高さには驚かされます。
また、アレックスは気分によってテストの解答をわざと間違えたり、人をからかったり、イラつかせたりすることもありました。
不満だ。こんな問題は飽きた。早く帰りたい。
それを受けて、人間も考える。
仮に言語を介していなくても、両者の間にはコミュニケーションという意思の交換があります。
これでも動物に思考力がないなんて言い切れるでしょうか。
おそらくまだ解明されていないだけで、動物はそれぞれに多様で高度な方法でコミュニケーションをとることができるのでしょう。
先述した犬との暮らしの中で、短いながらも色々なことを学びました。
一緒に暮らすことはお互いに大変。でも、ひとりでは味わうことのできない充足した時間の流れがあったように思います。
彼女と適切にコミュニケーションをとる方法があるなら、思っていることを聞いてみたかったな。
動物好きのみなさま。動物を飼ってみたいなと思っているけれど、うちはマンションだからとか面倒見られないでしょとか言われて泣く泣くあきらめざるを得ない人。あるいは、将来科学者になりたいなと思っている人におすすめの一冊です。
画材費、展示運営費、また様々な企画に役立てられたらと思っています。ご協力いただける方、ぜひサポートをお願いいたします。