手順のすり合わせ

目的、問題意識、方法論の違いによって、個別論理性に基づいた合理性追求をいかに協力的に達成しうるか、ということをずっと考えている。この中で、目的は将来についての、そして問題意識は現状における、それぞれスポット的な違いが表明されるものであり、それは静学的論理によって違いによる棲み分け、協力が可能となりうる。一方で、方法論はその時々に進行中のものであり、すなわち動学的論理によって成り立っていると言えるのかもしれない。手順のすり合わせとは、その方法論をいかにして協力的に組み合わせることができるか、ということになりそう。

動学的論理によって顕在化する集団行動の諸問題

理論的には、動学的であっても、時間的差異を考えると、むしろ静学的なものほどバッティングが起きる可能性は減るわけで、本来的にはそれはほとんど考える必要はない。問題は、目的や問題意識に関わる主導権争い、あるいは競争、そして他者や本人の時間を含んだ稀少資源の利用についての優先順位ということにあるのであろう。

完全情報と論理

そこで特に問題となるのが、完全情報を前提とした場合の情報の所有権とその広がり、ということになるのかもしれない。そもそも完全情報と情報の排他的所有権というのは明らかに両立不能であり、その両方を前提とした時点で論理が成り立つ余地はない。そこで時間というものを設定し、時間の経過とともに情報が拡散し、排他性が薄れ、次第に完全情報に近づく、という理屈づけがなされているのかもしれないが、拡散時点で情報にはバリエーションが加わるために、これによってもどこまで行っても完全情報には至らない。そこで、完全情報とはなんぞや、ということで、「わかっている」、つまり言葉にしなくても通じている部分が共有されていることがその定義となっているのではないかと考えられ、だから共通価値観、あるいは普遍的価値の共有といったことが重要視されるのではないだろうか。

「わかっている」こと

ここで、「わかっている」ことに基づいて手順のすり合わせが行われると、自分の役割外のことを行うということ自体「わかっていない」ことになり、共同作業ができなくなる。それによって、人は「わかっている」こと、つまり「みんな」の常識によって認識範囲の限定がなされ、その中での自分の役割を見つけ、それを固守することに汲々とせざるを得なくなる。つまり、手順のすり合わせとは、「わかる」範囲に認識を限定し、その中で自分の立場を弁える、ということになっているのが現状であると言えそう。

権力闘争のための手順すり合わせ

私に言わせれば、そうまでして手順を擦り合わせる必要はあるのだろうか、という疑問を持たざるを得ず、そこまで認識を限定し、自由を制限するような手順の擦り合わせにいったい何の意味があるのかということを問いたくなる。それは、手順について主導権を発揮し、自分に有利なようにその共同体全体を動かしたいという欲求のぶつかり合い、つまり権力闘争によって生じるものであると言え、そのような権力闘争が結局のところ個々の自由を制限し、社会の認識を狭く押し留め、日常を息苦しいものにするのではないかと感じる。

手順のすり合わせの意義

手順のすり合わせは、そのような「わかっている」ことを読み合うのではなく、目的や問題意識が共有され、バッティングの可能性が出た時に、明示的に自分の手順を示すことによってそこで生じうる摩擦を極小化する、ということで行われるべきなのだろう。

情報の排他的独占性

問題の情報の排他的独占性であるが、情報に完全はなく常に変化して伝播することを考えると、独占性ということについて考えるのではなく、拡散に伴う相互尊重に基づいた解釈の広がりということにより注目をして、情報の広がりということを意識する必要があるのではないだろうか。

「わかっている」ことを追い求める意味

その中で「わかっている」ということを情報と捉えるのか否か、それは明示化されて初めて情報となるのではないか、そして「わかっている」ということを追い求めることに意味はあるのか、つまり、「わからない」ことを追い求めて「わかる」に至るのではなく「わかっている」という状態を常に追い求めるということが健全なのかどうかということについてより深く考えてゆく必要があるのではないだろうか。

完全情報を追い求める不可能性

「わからない」から「わかる」よう努力する、というのが自発的な好奇心に基づく知的欲求の源泉であると考えられ、それが「わかっている」という状態があるから「わかれ」よ、というのは極めて傲慢なものではないかと感じる。経済学的な完全情報の前提は、すべてが「わかっている」ことが所与で最適な分配が実現されるとして市場の機能を定義しているので、市場というものが完全監視下にある閉鎖的ガラス張り空間にあるというような非常に奇妙な状態にあることになっている。そしてその「わかっている」状態に入ることが市場参加の条件となり、そのために常に「わかっている」状態を保つよう激しい情報争奪戦、駆け引き、そして皮肉なことに結果としてフェイクニュースのようなものが発生しやすい状況を作り出し、結局完全情報などというものはどこまで行っても達成されないということが明らかになるという不可能性ゲームを延々と続けていることになる。

人間認識に基づく論理社会への根本的問い

人間認識をもとに論理社会を築くつもりならば、数学的線形モデルで設定した完全情報化された目的に対する目的合理性による完全競争市場の成立とその必然的帰結としてこの不可能性ゲームに至るということの是非を含め、「わかっている」「わかる」「わからない」ということについて、もっと明確に定義する必要があるのではないだろうか。

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Emiko Romanov
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