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【Lonely Wikipedia】清仏戦争

フランスのアジア進出の一環として清仏戦争が起きた。欧米のアジア進出の実態をよく示す例としてこれをみてみたい。

清仏戦争(しんふつせんそう、簡体字中国語: 中法战争、繁体字中国語: 中法戰爭、ベトナム語: Chiến tranh Pháp-Thanh/戰争法清、フランス語: Guerre franco-chinoise)は、1884年8月と1885年4月にかけて起きた、ベトナム(越南)領有を巡るフランスと清との間の戦争。
フランスが領土領有を達成したためフランスの勝利と考えられているが、士気旺盛な黒旗軍との戦いでは軽視できない損害も被った。

フランスのインドシナ進出については別に見てきたが、その実態はなかなか掴めなかった。それは、18世紀の末から継続的に行われてきたが、なかなか成果を得ないまま半世紀が経過し、1848年革命後にナポレオン3世が政権を握ると、55年に日本が安政の五カ国条約で開国したことをきっかけに、急に展開を始めた。それが、56年からのアロー戦争と58年からのコーチシナ戦争だ。

まず、時期の重なっているアロー戦争についてもう少し見てみたい。アロー戦争の時期には、東インド会社に絡んでインドから中国にかけてのアジア南岸地域でかなり様々なことがあったようで、その実態が非常にわかりにくいために、この時期、そしてその後のアジアの様子というのがよくわからないことになっているようだ。

まず、54年にインドで総督のラムゼイがムガール皇帝を単なる藩王に格下げするという動きがあり、インドでの混乱が始まる。それは結局本国の反対で取りやめになるが、その動きを見たためか、本国では55年12月にチャールズ・カニング卿をインド総督として送り込むことに決めた。カニング卿は3月にインドに到着するのだが、それに先んじて年明けすぐに前任のインド総督ラムゼイがムガール皇帝を廃してアワド藩王国をイギリス直轄にする、ということをし、それを置き土産にさっさとイギリスに帰国した。そんなことで、カニング卿のインド統治は最初から波乱含みだった。

一方中国では56年からアロー戦争が始まり、イギリスではそれに派兵するか否かが問題となって議会の解散にまで至っているという。57年にはインドでインド大反乱が発生。そしてインドシナで58年からコーチシナ戦争が起こっている。インド大反乱は一応58年に収束し、それによって東インド会社が解散となってインドはイギリスの直接統治下に入る。このあたり、どうもそのまま文字通りには解釈しにくい。こちらで、アロー戦争についても中途半端な書き方で止まったので、もう少し進めて考えてみたい。まず、いくら国旗を侮辱されたからといって、議会を解散し、しかもそれが支持されてアロー戦争に入る、という流れはどうにも引っかかる。これはおそらくインド大反乱に対する派兵を決議しようとして否決され、それで解散をし、支持を得たのではないかと考えられる。イギリスにおいて、インドでの成金的な存在は一定程度いたようで、それは本国でもあまり評判が良くなかったという。その勢力がインド派兵に反対したが、それを選挙での支持の上でひっくり返して派兵したのではないだろうか。そこで、なぜインド派兵がそこまで反対されたのかを考えてみたい。インド大反乱の主力は東インド会社に雇われたシパーヒーと呼ばれるインド人の傭兵であったという。この反乱が果たしてインド人のイギリスに対する不満だったのだろうか。直接的に見れば、東インド会社のインド文化に対する無理解が反乱につながったのだろうし、傭兵なのだから、扱いが嫌ならばやめればいいだけのことでもある。インドでの悪政を東インド会社がイギリス本国の責任に転嫁しようとしたにしても、本国の統治機構などはないのだから、事実上新たに赴任したカニング卿を狙い撃ちにしたものとなる。つまり、東インド会社が、自らの統治に対する不満をイギリスにぶつけることによって、実は反乱を裏から煽り、ことによるとアジア地域における東インド会社の独立のようなことを考えていたのかもしれない。当時イギリス本国ではパーマストン卿とラッセル卿の対立が深まっていたが、それは、前のインド総督ラムゼイをラッセルが任命し、そして今回パーマストンがそれをカニングに替えたということも深く関わっており、つまりインド問題というのが、イギリスの政局において非常に重要な位置を占めていたのだ。そんなこともあり、本国でのパーマストンおろしと連動して東インド会社が引き起こした政争がらみの反乱だった可能性もあるのだ。だから、アロー戦争への派兵とされているものが、実際にはインド派兵であったというのは、東インド会社にとっては、自らの統治責任が問われることでもあり、何とか隠したかったことではないのだろうか。それで中国に派兵しアロー戦争が起きた、という話になっていったのだろうが、その話を収めるために、次から次へとよくわからない方向に話が展開してゆくことになったのだろう。

すでに述べた通り、インド総督はカニング卿が務めていたが、62年に体調を悪くし、帰国して程なく50歳の若さで亡くなっている。カニングは、パーマストンの師匠でカニング派を作ったジョージ・カニングの息子であり、中道・良識派の本命であったと言えるが、それがここで若くして亡くなってしまったことが、パーマストン後の見通しを一気に悪くしたと言える。そのカニングの後任として初の勅選インド提督となったのがエルギン卿で、そのエルギン卿がアロー戦争の最後に北京まで行って、清がイギリス人などを人質に取ったことを理由に、夏の避暑宮殿を破壊した、とされる。以前にも書いたかもしれないが、この時期に西欧の軍隊が北京まで易々と侵攻できたとは到底思えない。おそらくこれは清朝内部で行われたことで、満州系とモンゴル系の対立の結果か、あるいは太平天国の乱の余波であったと考えられる。

この北京侵攻の記録はこの軍隊に従軍したというアイルランドの宣教師マギーの1862年に出版したとされる”How We Got Into Pekin”に記述されており、それは非常に強い証拠であると言えるが、この著者は本はこの1冊しか出していないようで、もしこれが62年に本当に出ていたとしたら、パーマストンの政権運営に何らかの影響を及ぼしても不思議ではないと思うが、それがきっかけで何かが動いた、というような気配はない。当時のイギリスにとっての最重要の関心事項は南北戦争についてであり、そんな微妙な時期に中国でそのような重大事件を起こすとは到底考えられない。

これは私の勝手な解釈だが、おそらくこの本が出たのはもう少し後のグラッドストン政権下ではないだろうか。グラッドストンは、プロテスタントであるアイルランド国教会を廃止したが、作者のマギーの父親と見られる人物はアイルランド国教会の聖職者で、本人もアイルランド国教会関係者であった可能性が高い。この時期も特にジャガイモ飢饉の影響もあり、アイルランド問題はイギリス政治の中でかなり重要な問題となっていた。アイルランド国教会を通じたプロテスタント系によるアイルランドの土地支配は、まさにジャガイモ飢饉で飢饉下でも食料輸出を続けていた主要な要因であると考えられ、国教会側にとっては大きな利権である一方、アイルランド側にとっては圧政の象徴であったと言える。その国教会の廃止を行ったグラッドストンへの抵抗は、国教会利権側から非常に強く起こっており、その一環として、グラッドストンの親友でもあり、カニングの後にインド総督となってその翌年には亡くなってしまったエルギン卿を貶めながら、北京条約という、誰が署名しているのか確認が取れず、国家間の条約とはいいがたいようなものを正当化するということが行われたのではないか。

もし仮に60年段階で北京にまで英仏連合軍が進軍して不平等条約を結ぶなどということが実際にあったのならば、清の支援を受けていたと考えられるコーチシナ戦争でフランスがここまで苦戦するようなことはなかっただろうし、北京条約の中でもそのことについて何らかの言及があっても然るべきだろう。そのことを考えれば、60年の北京への英仏連合軍の進出はなかったと考える方が自然なのではないか、と私は考える。このあたりは、キリスト教を奉じた太平天国の乱と同期しているので、それによって記録が混乱している可能性がありそう。

そんな立場で、コーチシナ戦争について見てゆきたい。これは1857年にスペインの宣教師、とは言っても、本国の統制があまり及んでいなさそうなフィリピンからの宣教師のようだが、とにかくその宣教師団から2人の死刑が執行された。それをきっかけにフランス・スペイン連合軍がインドシナ侵攻を行い、サイゴンを陥落させたようだ。それがフランス軍によるものなのか、反乱軍とされているものによるものなのかは実際にはよくわからない。その頃、というかそれ以前からずっとだろうが、宮廷内にはヴェトナム人と、そこに入り込んだ華僑系官僚との勢力争いがあったようで、華僑系の官僚がかなり都合良くベトナムの歴史自体書き換えているように見受けられる。

そして、そのうちの一人潘清簡が1862年にフランスとの交渉の全権代表に選ばれ、それで勝手に南部3省の割譲を含んだサイゴン条約を結んだようなのだ。それは民衆からはもちろん皇帝からも不評だったようで、それを撤回させるよう命令を受けてフランスに渡るが、結局それは叶わず、67年のフエ条約でさらに3省の割譲がなされ、フランスインドシナが拡大した。

全体的に流れが掴みにくいので、もう少し時間軸を引き伸ばして、過去にまで遡って考えてみたい。おそらくこの背景には、こちらでも書いていて、まだ最終的な結論は出ていないが、やはり経済問題があったのではないかと考えられる。中国というのは、元々銅銭が基本的な通貨として流通しており、それとは別に元の時代に紙幣が導入されるということがあった。明の時代にも、銅銭が基本であるということは変わらなかったが、大航海時代によって太平洋航路が開かれ、中南米方面からの銀の流入が増すに従って、秤量通貨としての銀の役割が増し、それが銅銭の価格まで左右するようになり、物価が不安定化した。銀は貴金属でありすぎたために、流通があまり行われず、銀が増えれば増えるほど、それは富裕層の富の貯蔵手段となり、決済手段が不足するようになったのかもしれず、そして銀価格の下落を嫌がる富裕層の圧力で海禁政策が取られるようになったのかもしれない。明が倒れた最大の要因はこの通貨問題であったと考えられ、それに代わった清は、銅銭を大量発行するとともに、銀を納税、八旗への給与、そして対外貿易に限ることにした。銀が市中に溢れて物価が混乱しないように、納税を銀納にし、その銀を身内である八旗に支払うことによって、交換手段である銅銭の価値が安定し、社会も落ち着くようになったと考えられる。ただ、中国産の生糸や陶磁器は、海外で非常に高く売れたので、それによる銀の流入は続くことになった。銀が溢れると銀安となり、八旗の生活が厳しくなる。この銀の流入問題があったからこそ、清は鎖国政策をとったのだと考えられる。この、重商主義からは全く説明のつかない状態を想像しておかないと、清と西欧諸国の行き違いの真相はなかなか見えてこないのだろう。

この観点からアヘン戦争を見直してみると、銀の大量流入が経済社会を不安定化させるので、何らかの輸入によって銀を消化する必要が出てきて、それでアヘンの輸入ということになったのかもしれない。それは、清は買いたいものがあればいつでも大歓迎であるということを意味し、逆に言えば清を開国させても、西欧諸国から売るものはほとんど何もなかったことになり、一体何のために武力で開国させる必要があったのか、ということが問われることになる。それは、内需拡大やら、もっとひどくなると輸入自主拡大なる押し付けによって市場解放を迫る現代のやり方と同じであり、売りたいのならばまず欲しいものを持ってくる、という経済の基本が全く成り立っていなかったことを示している。それは、まさにセイの法則的な、作ったものがそのまま売れるのだ、という楽観主義を力によって実現しようとした重商主義者の傲慢さを示しているようなものだと言える。

いずれにしても、アヘン輸入が清政府の公式な立場ではない以上、それは、客家系貿易商人が手元の銀の価値下落を防ぐために西洋諸国、というよりもその出先としての東インド会社からアヘンを購入し、中国国内で売り捌いて銅銭に替え、それによって銀が市中流出してその価値が下がるのを防ごうとした可能性がある。この銀の流通メカニズムが結局清を崩壊に導くことになったと考えられ、それをみたアジア貿易に携わっていた、特にフランス系の商人が、金本位制導入に関心を持つ、ということにつながったのかもしれない。この辺り、アジアに金本位を押し付けるのではなく、銀貨の導入を進め、そしてアジア側で銀本位制を導入させることで、世界を金遣いと銀遣いで棲み分けていたら一体どうなったのだろうか。普仏戦争以降の戦争が、金本位を守るための金を賠償金で得るための戦いであるという色彩を強めたこと、そして第二次世界大戦の原因がドイツの賠償金問題であったことを考えると、歴史にifはないとは言え、人類にとっては非常に大きな決断の時であったとも言えそう。

それはともかく、銀安は、海外貿易への依存が高い南部地域での物価不安定、人心の混乱につながり、それがアヘン戦争後の太平天国の乱につながった可能性がある。ここで、清末には銭に対して銀高になっていた、という部分がどうにも気になるのだが、増税と一緒に行われたということで、おそらくではあるが、八旗の不満に直結する銀安を抑えるために、銀での増税を強化して意図的に銀の価格を上げたのではないだろうか。この辺り、米の価格下落が武士の生活困窮に繋がった江戸幕府後期を想像してみるといいのかもしれない。また、その増税分が全て中央にまで届かなかったとすると、地方政府、あるいは実力者がその増税分を横領していた可能性もある。それによってのちの軍閥化の基礎ができたのかもしれない。

そして、ベトナム宮廷に入り込んでいたのも、やはり客家系の華僑であったと考えられ、それがキリスト教を受容することによって貿易の利益を確保しようとし、さらにそれが太平天国の資金源となっていった可能性がある。太平天国とベトナムの黒旗軍が同一視されることがあるが、これは明らかに対立的であり、西洋受容的反清・ベトナム在地勢力の立場を取ったのが太平天国系で、黒旗軍は清政府・ベトナム在地系(南部割譲反対派)を支持する立場であったと言えそう。それはともかくとして、太平天国の乱は、銀の流入による経済、社会の不安定化を、キリスト教をだしにした貿易商人たちが、清の政治が悪い、ということにすり替えて反乱を煽ったのだと言えそう。そしてその一部がベトナムの宮廷にも入り込み、そのやり方への反発が強かった南部を勝手にフランスに割譲する、ということをやったのではないだろうか。

ここで阮文祥という人物がいる。阮姓ではあるが、王室とは関係のない、小作農出身だとされるが、どうも怪しい。明命帝の長男でフランスと繋がりの深かった阮福景やその子阮福美堂につながる系統をフランスが押さえており、それを切り札として使ったのではないかと考えられる。とにかくこの人物が、1874年に甲戌条約を締結したのだが、それはベトナムではなくアンナン王国として結ばれたものだった。つまり、フランスが押さえていた阮文祥という人物を安南国王に見立てて、勝手に条約を作って締結した上で、それをベトナムにそのまま認めさせようとしたのではないかと疑われるのだ。その甲戌条約では紅河を国際河川として認め、ハノイなど三つの港を開港し、首都のフエとその三つの港に領事を置く代わりに62年のサイゴン条約で課された賠償金の未払い分を免除する、というものだった。アンナン王国なるものに別名義の国で結ばれた条約を上書きする権利があるわけもなく、紅河やハノイなどももちろん主権の及ぶ範囲とは考えられない。こんな無体極まりない条約が有効であると主張できるその感覚がどうみてもおかしいのだが、ナポレオン3世が失脚し、第三共和制なるものができても、フランスという国の本質は何も変わらなかったということを如実に示している。もっとも、これを行なったポール=ルイ=フェリックス・フィラストルという人物は、普仏戦争中にフランスに戻っており、パリコミューンにも参加していたようだが、その政争の中でフランスに居場所がなくなりインドシナに落ちてきたとも考えられ、だからこの条約自体がフランスという国の性質をそのまま示すものではないとは言え、その歴史的評価を国としていかに行うのか、というのは現代的問題として依然として残っているだろう。

1883年に阮朝4代皇帝の嗣徳帝が崩御すると、ちょうどその時期フランスの新植民地主義を主導したジュール・フェリーが首相となっていたこともあり、一気にインドシナへの侵攻を開始した。阮朝側では、阮文祥が暗躍して皇帝が3人次から次へと変わるという事態になっており、とても国として対応できる状態にはなかったので、黒旗軍という、義勇軍というべきか、ゲリラというべきか、とにかくチワン族系の勢力が主力となってこれに対応したが、その黒旗軍と清との関わりを理由にして起こしたのが翌84年に始まった清仏戦争であった。それは、統治能力を失った阮朝の代わりにインドシナ統治を目指したフランスが、清に一方的に仕掛けた戦争であったと言える。もっとも、最初は黒旗軍がフランス軍に対応していたのだが、それに対して清もベトナムも援軍を出さなかったことから黒旗軍は手を引き、そこから清との対決に至った。しかも開戦前にベトナムの許可もなくベトナム領を清と二分するという、その段階で既におかしい交渉を現地の公使が行ったものが、さらに本国で弱腰と非難されての戦争勃発であり、フランスの世論全体がベトナムという国の存在を完全に無視していた、という事実は見逃すことができないのだろう。

一方で、清の方も、黒旗軍を支援しなかったことで弱腰とみられ、それによって南方の治安が悪化し、その隙をフランス軍に突かれたという面もあった。

しかし、この開戦となったバクレの戦いではフランス軍から仕掛けておきながら、反撃を受けて撤退するという無様さを見せた上に、それに対してフランス政府が清の政府に謝罪と賠償を求めるという、全く理解不能の異次元対応をし、清は当然それを断り、戦争に突入したのだった。

ただ、清という国は、成立も漢民族の呉三桂からの依頼を受けて万里の長城を越え明を滅ぼした李自成を討ち、その後も呉三桂らによる三藩の乱という明を滅ぼした勢力のほぼ自滅に等しい戦いで中国の統一を成し遂げており、異民族支配というのには似つかわしくないほどに非常に平和的な、中国史上稀に見る文治の帝国であったと言える。もっとも、政権交代時には虐殺があったともされるが、その後の人口急増を見ると、虐殺というほどのものはなく、単にあちこちに逃散した、という程度であろうし、そしてその主体も明に対して反乱を起こした漢民族であろうと考えられる。

だから、ベトナムまで兵を出して戦うというのは基本的に清という国のあり方とはあまり合っておらず、国としてフランスと戦ったというよりも、南方の諸勢力が各自フランスと対峙した、ということであり、フランスという国はそれですらも陸戦においてはほとんど歯が立たなかった程度の力しかなかったという事実は確認しておくべきだろう。それが欧州においては列強の一角として名を連ねていた、という、歴然とした軍事力の差があり、そのフランスがアジアに進出できたのはほとんど謀略の結果であったということなのだ。そのあり方は、2度の世界大戦はもちろんのこと、現在に至るまで、西洋と東洋の関係性においてほとんど変わっていない、ということは頭に入れておくべきだろう。

結局フランスは、ジュール・フェリー政権がこの戦いの苦戦によって退陣に追い込まれて戦争終結となった。その後、列強は戦争では清には勝てない、ということになり、外交的圧力、そして謀略による中国への進出へと舵を切ることになる。

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