広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(12)
厳島から見る毛利元就2
引き続き、『棚守房顕覚書』より、陶隆房の謀反のところから毛利との関わりを追ってみたい。
どうも、祇園社から吉田を”當社”に寄進した毛利の力を用いて、大内が討たれたのを機に勢力を拡大しよう、という意図の元に話を進めているように感じられる。
大内を討った陶が元々仲のよくなかった吉見征伐に出かけ、毛利に助力の催促をしたが、そうはならずに己斐、草津、櫻尾の城をとって神領ヘ向かった、ということか。ここで宮島と當島が別に書かれていることには注目したい。
そしていよいよ厳島合戦であるが、ここでは驚くほどに毛利の存在感は薄い。一応関連部分だけピックアップしてみると、
とあり、小早川隆景の戦ぶりの方が詳しく出ている。そんなことからも、やはり舞台は大三島だったのでは、という印象を受ける。なお、ここで出てくる三浦というのは相模国の武将として知られており、鎌倉時代もそうだが、後北条氏とも関わりがあるということで、ここで名前を出すことで、右田氏から吉川氏に引き継がれた『吾妻鏡』の解釈を関東方面に移すという下準備がなされていったのかもしれない。
いわゆる厳島合戦によって房顕が得たものの根拠を元就に求めるというのがこの本が書かれた理由であると言えそうか。
元就は敬称なしで小早川殿、吉川殿には敬称がついている。毛利を立てておいて、実は小早川、吉川でとってゆく、ということを示しているか。
この後、吉田がらみの話が多く出てくるが、どうも場所が変わっているような印象を受ける。しかし、それがどこを指しているのかは今の所よくわからない。
吉田は報告を上げる先になっている感じか。
やはり、吉田から命令が降る、ということになっていそう。八坂神社よりも明らかに厳島神社の方が歴史があるのにも関わらず、というかそうだからこそ、八坂神社から寄進先を振り替えた吉田に敬意を表しているということなのだろうか。それにしても歴史ある厳島神宮の奉行を司る棚守の行動としてはあまりに軽い、と感じる。
吉田兼右は、吉田神道の創始者兼倶の孫にあたり、清原家に養子に行った宣賢の子が再び吉田家に戻って跡を継いだことになっている。この時期は、その創設からまだ百年も経っていない、いわば新興宗教とも言って良いようなもので、そこに伝統ある厳島神社の遷宮について伺いを立てるなどということはとてもではないが考えがたい。あるいは吉田神道の権威自体、この書での吉田兼右の存在感によって強化されたという可能性も考えられそう。つまり、棚守房顕が吉田兼右という人物をうまく使って吉田という名を広めると同時に自らの権威の源泉に据えた、ということも考えられる、ということが言えそうだ。
大事な宝刀を渡そうとしたら、隆景の奉納したものが良いと言われ、断られている。しかも先方から太刀を受け取っており、平家以来武家の信仰の厚い厳島神社をあまりにコケにしているとしか思えない。太刀の話が出ていたのは兼右の来訪よりも八年も前のことと見られ、にも関わらず元就の名を出してその御意があったし、かつそれが断られて隆景の奉納した太刀を渡したということで、元就の没後に隆景路線にあからさまに切り替えている様子がわかる。
元就が没してから、それより先に死んでいるはずの隆元の話が出てくる。特に後者の文は遷宮が元亀年間で、常榮が注にある通り隆元のことならば、随分と時期がずれており、何かが違う話のようだ。
吉田神道の導入を図った元就に対して、隆元が旧例を重んじていると協調することで、吉田一本からのリスクヘッジを図っているようにも見える。
やはり隆元はこのリスクヘッジのためだけに出てきたか。早速亡くなって九州出兵の話になっている。
十ケ国とあるが、八カ国しか挙がっていない。
御兄弟衆はいずれも棚守のところを宿にしたとありながら、小早川と吉川を省いている。
元就後に、屋形、上様、と主語をぼかすことによって誰が一番偉いのかが曖昧になっている。上の段で小早川隆景だけ特別扱いにしているところから、ここで隆景が棚守房顕によって毛利家中で一番偉い、というポジションに立ったのかもしれない。それが前にも述べた朝鮮出兵に絡んだクーデター含み
の動きを可能にすることになったのかもしれない。
少し端折ったが、これで『棚守房顕覚書』の中に出てくる吉田と毛利絡みの部分はだいたい拾った。全体として、すでに何度か書いているように、この書は、実は大三島の大山祇神社の所属であったかもしれない棚守房顕が、吉田と毛利の名をうまく使って社領を広げたり、権威を拡大したりし、その上に吉田の地名を少しずつずらしたり、毛利の話もうまく作ったりしてゆくために書かれたものだと考えられそう。
それは、四国系の勢力が本州に進出してくる様子を示しているのかもしれない。おそらくそんなことがあったがゆえに、その時期の四国の強者であった長宗我部元親という人物が形成されたのではないかと疑われる。元は毛利家の通字、一方親は厳島宮司家の通字であり、もっと言えば、元親の後を継ぐ盛親の盛は平家の通字から来ている可能性も考えられ、そうなると広島周辺の歴史的文脈を随分集めて長宗我部氏という士族を作り上げた可能性もありそう。
一方、毛利氏の話も、この文献が起点となって始まったものもかなりありそう。毛利元就の絡む戦として、郡山合戦と厳島合戦がよく知られるが、この本では、郡山合戦での毛利の活躍はよく描かれている一方で、厳島合戦では、小早川隆景の活躍は多少触れられているが、毛利本体の話はほとんど出てこない。郡山合戦では棚守房顕が寄進を受けてその立場を強くしており、毛利というよりも吉田あるいは元就という名でかなりその動きを追っている。この戦いによって吉田を寄進した元就という人物像が形成され、それがこの本における毛利元就という人物像の軸になっていると言える。毛利自体、いわゆる吉田が本拠だったかと言えば、もしかしたら備後が本拠だったのでは、というような記述もあり、要するに吉田をどこにするかによって、かなり幅広く毛利の拠点の可能性も広げてあったのだと言えそう。
厳島合戦の方では、元就が博打尾に上り、そこで小早川の活躍が描かれることで、その存在を引き上げ、本家を少しずつ弱体化させようという戦略があったか。もともと山の方では吉田の名をなるべく東に移すために、毛利の存在感を広くとっておく必要があったが、海の側では四国の水軍勢が本州に進出している過程であると言えそうで、それならば水軍のボスである小早川の存在感を引き上げた方が有利であるという判断が働いたのだとも考えられそう。
このようにして、山の顔と海の顔が全く違う理由によって描き分けられたために、毛利の活躍というのはどうにも掴みづらい、その特徴がはっきりしないものになっていったのだと言えそう。つまり、毛利の基礎資料だと言えるこの『棚守房顕覚書』での元々の記述が、房顕の都合の良いように書かれているので、毛利氏という存在の有無に関わらず、その記述についてはほとんど信用ができない、という状況になっていったのではないだろうか。
なお、この本では、地理的に考えれば広島も何らかの存在感があっても良いはずだが、その言葉は一つも出てこなかった。そのように存在感の薄い広島に、この書が書かれて十年もしない間に輝元が城を築き、広島と名付けるその必然性は、この書からは全く読み取れなかった。