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一般均衡モデル

ミクロ経済分析で一つの財について需要と供給が一致する点を分析するのが部分均衡モデルであるが、それを全ての財に拡張したものとして一般均衡モデルというものがある。これが成立したことによって、経済学への数学導入が大きく広がったと言えるので、これについて詳しくみてみたい。

一般均衡モデルとは

一般均衡(いっぱんきんこう,英: general equilibrium)とは、ミクロ経済学、特に価格理論のアプローチのひとつ。主として1つの財の市場における価格と需給量の決定をあつかう「部分均衡分析」に対し、多くの財をふくむ市場全体における価格と需給量の同時決定をあつかう理論を「一般均衡分析」と呼ぶ(ただし、部分均衡は注目する財以外をまとめて一つの財として捉え、明示的ではないがその均衡を考えていることになるため、一般均衡分析でもある)。レオン・ワルラスが1870年代に創始し、パレートによって継承され発展したローザンヌ学派が確立し、1950年代にケネス・アロー、ジェラール・ドブルー、ライオネル・マッケンジー、二階堂副包らの貢献により現在の整合的な分析手法となった。

Wikipedia 一般均衡

ここまでは言葉としての定義はわかりやすい。一つの財ではなく、財全体を考えるということで、考え方としては、これによってミクロ経済とマクロ経済の橋渡しができる様になるのだ、ということはなんとなく理解できる。しかし、財全体が一般的に均衡するという状況は想定できるのか、なおかつそれはそもそも必要なことなのか。後者についてそれを必要だと理論づけたのが厚生経済学の第一定理、つまり他の人の効用を害することなく効用を増やすことのできるというパレート効率性だといえる。

厚生経済学の第一基本定理
消費者の選好が局所非飽和性を満たせば、競争均衡によって達成される配分はパレート効率的である、というものである。局所非飽和性とは、どんなにわずかにでも消費量の増減が許されるならば、より好ましい消費量を実現できるという仮定である。

Wikipedia 厚生経済学の基本定理

アロー・ドブリューモデル

この中で、これが数学的に確立されたのが1951年のアローとドブリューによる競争均衡の理論で、その後54年にアロー・ドブリューモデルがこれを数学的に補強したとされる。まずは、この明らかにおかしいアロー・ドブリューモデルの方から見てみたい。

数理経済学におけるアロードブリューモデル(Arrow-Debreu model)は、一定の経済的仮定の下で(凸選好(英語版)、完全競争および需要依存)、経済におけるどの商品に対しても、総供給が、総需要に等しいような一連の価格が存在しなければならないことを示す。

Wikipedia アロードブリューモデル

凸選好

凸選好というのは、正確なところは英語版を参照していただきたいのだが、私の理解では無差別曲線のことではないかと考える。しかも、この理解が正しいのかはわからないが、その字にも関わらず凸凹がなく滑らかに推移する関数であり(凸凹があるとその中の2点を結んだ時にその集合から外れてしまう?)、つまり財と価格についての選好順位を曲線にして表したもので、当然人によってその順序は異なることになる。にもかかわらず、その無差別曲線を一般化して一般均衡の仮定とする、という時点ですでにおかしいのでは、と感じる。つまり、違う財での価格と数量の条件を同じものであると仮定して一般化しているのでは、ということで、もしそうならば、そもそも財の交換の財の定義が取引当事者間で違っていると想定していることであり、その時点ですでに需給のマッチングを行う市場とは言えないのではないかと思うが、これは私の理解が正しいのかどうかもよくわからないのでなんとも言えない。

完全競争

次いで完全競争だが、その定義は、

完全競争(かんぜんきょうそう、英: perfect competition)とは、『全ての経済主体(家計や企業)が価格を「所与」として行動している』という仮定である。完全競争における経済主体は価格に対する影響力を一切持たないため、彼らはプライス・テイカー(英: price taker、価格受容者)と呼ばれる。

Wikipedia 完全競争

価格が所与でなぜ競争という言葉が出てくるか、と言えば、価格競争下において、条件が折り合った時点ですぐに取引が成立する、ということを示しているのではないかと考えられる。、それは財というものの性質をあまりに単純化しすぎていると言わざるを得ない。この問題は後からもう少し考えることにする。

需要独立性

最後に需要依存となっているが、これは英語ではdemand independenceとなっており、依存というよりもむしろ独立性と訳すべきものであろう。これは、個別の財への需要が他の市場の条件付き要素とは独立して決まる、ということだという(https://studydriver.com/the-framework-of-the-arrow-debreu-model-finance-essay/)。これは、意味するところが非常にわかりにくい。例として他の財の供給が変化しても需要は変わらないとなっているが、そうなると個別材に性能比較可能な競合材がないことになり、その時点で無差別曲線の意味を否定する様な仮定ではないだろうか。

アロー・ドブリューモデルの現実適用性

ここで、完全競争なるものの意味することがよくわからなくなる。競合材がなければ競争は完全に価格のみ、ということになり、作っては値下げ競争をするというのが完全競争のイメージとなる。それは一体何との競争なのか、そしてなんのための生産なのか。しかも、完全競争の定義から、企業にも価格決定権はないという。競合材がないのに企業が価格決定権を持たない、という想定もよく理解できない。これは、株式市場の様な非常に特殊な「市場」をイメージして考えられた概念ではないのか。いずれにしても、現実の市場の分析としてはあまりに雑であり、とてもではないが現実分析に耐えられる概念であるとは思えない。

全体として、仮定同士どころか一つの仮定の中ですら競合の発生している、現実的にほとんど意味をなさないモデルでありそうだが、では、この非常に質の悪いモデルが一体なぜ考え出されたのかを考えてみたい。

一般均衡モデルの誕生

1954 年、McKenzie とそのペアである Arrow と Debreu は、コンパクト、凸集合からそれ自身への連続写像の不動点上での角谷の不動点定理を援用し、一般均衡の存在を証明した。

Wikipedia アロードブリューモデル

ということで、要するに、51年の一般均衡がまずあり、その数学的証明をするために角谷の不動点定理というものが使える、ということで、それに当てはめて仮定を定め、54年になってそれによってモデル化した、ということの様だ。

ここで角谷の不動点定理とは一体何か、ということだが、数学的な話はよくわからないので直感的理解となるが、集合値函数の閉区間が必ず不動点を持つ、ということで、無差別曲線上の無限のパレート最適点の中で、この部分があまりよく理解できていないのだが、それぞれの効用の機会費用が最小となる点が存在する、ということになるのだろうか。

ナッシュ均衡との違い

アローとドブリューがこの角谷の不動点定理を応用したのには、二人が競争均衡の理論を発表した前年にジョン・ナッシュがこの定理を利用してナッシュ均衡について証明した、ということがありそうだ。もともと角谷自身がゼロ和ゲームの理論におけるミニマックス定理を証明するために利用することができるとしていたということで、被害を最小化する戦略選択のナッシュ均衡については直感的に当てはまりそうな気がするが、果たしてそれが競争均衡に結びつくのか、というのはなんとも言えない。というのは、競争均衡では、ナッシュ均衡による角谷の不動点定理の適用とは全く正反対の適用がなされていると考えられるからだ。つまり、ナッシュ均衡は長期的戦略の安定要因として不動点を考えているのであって、要するに不動点がある間は取引が成立しない、ということを言っているのではないか、と考えられるということだ。競争均衡にこれを当てはめるということは、不動点に向けて競争し、それが実現した瞬間に全ての取引が実現し、それによって均衡が再び崩れる、その瞬間についての分析であり、そこでパレート効率性が実現するにしても、ナッシュ均衡の様にその後の戦略の普遍性を意味するものでもなんでもなく、単なる刹那の出来事で、その後には再び混乱の競争が行われる、というなんとも救いのない話になるのではないのだろうか。

一般均衡の驚くべき想定

さらに一般均衡のところを見てみると、驚くべきことが書いてある。

ワルラスは、一般均衡理論を構築するにあたり、消費者と生産者の取引の量やタイミングはすべて正確に知られているという仮定を導入し、取引における一切の不確実性がないものとした。しかし、不確実性を排除するということは、貨幣の存在意義を排除することである。主流派経済学の経済モデルが大前提とする一般均衡理論が想定するのは、貨幣が存在しない世界である。

Wikipedia 一般均衡

経済モデルを標榜しながら、そして価格分析のアプローチであるとしながら、その想定は価格を表示するはずの貨幣が存在しない世界であるという。これはもはや私には理解を超えてしまって、なんのことを言っているのかさっぱりわからない。もっとも、全体を通してだが、私の理解が貧弱すぎて理解できていないことが多々あるのであろうが、そうであっても、理解できないことを理解できない、と言えないまま、現実がその理解できないモデルにしたがって動くという状態は、もはや科学ではなく、呪術的な世界だと言える。呪術を理屈が通る様に説明しようとしてきた努力が科学的なアプローチであると言えるのに、経済学においては、科学的な風を装って、新たに呪術が作られていると言えるのではないか。


この様に、ミクロ経済分析のベースをなしているとも言える一般均衡分析は、その理論的な部分が難解すぎて理解できないのにとどまらず、大前提の想定すらも普通に読んだだけでは理解できない異次元異空間の理論であると言えそう。その様なものに依存した経済学に果たして実際的な意味、価値が存在するのであろうか。やはり経済学は、一旦白紙に戻した上で、普通の人が理解できる範囲から、普通の人が理解できる言葉で説明する、ということが必要になっているのではないだろうか。

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