【ニクソン・ショックを探る】文化大革命(上)
ニクソンショックをやっているのか、中国近現代史をやっているのかよくわからなくなってきたが、もう少し中国を。
文化大革命の概要
ニクソンショックと時期的に重なっているところもあり、ニクソンショックの中国側の内政的要因となったとも考えられる文化大革命について。
文化大革命とは、
中華人民共和国で1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた、中国共産党中央委員会主席毛沢東主導による文化改革運動を装った毛沢東の奪権運動、政治闘争である。全称は無産階級文化大革命(簡体字: 无产阶级文化大革命、繁体字: 無產階級文化大革命)、略称は文革(ぶんかく)。
とされ、中国国内の権力闘争として捉えられることが多いが、ここではもう少し国際的文脈から読み解いてみたい。
劉少奇
まず、前回大躍進を毛沢東と劉少奇の共犯関係ということで読み解いてみたが、実はこの大躍進の責任をとって毛沢東は国家主席を辞任しており、代わりに劉少奇が国家主席となっている。『戸口登記管理条例』の成立過程を見ても、実は劉はもっと積極的に毛あるいは周恩来に対してクーデター的なものを仕掛けたのではないかという疑いもある。では、この劉少奇についてもう少し見てみたい。
劉は1898年に、毛沢東の出身地と程近い湖南省の寧郷県で生まれ、13年に長沙に行き鉅省中学に入学。1920年に湖南省の中国社会主義青年団(後の中国共産主義青年団つまり共青団)に入団したとされる。共青団は1920年8月に陳独秀や戴季陶、李大釗らが上海社会主義青年団として設立したとされ、つまり場所こそ違え、共青団の設立とほぼ同時にメンバーとなっていることになる。そして、陳独秀の動きがそのまま翌年の中国共産党設立につながったともされ、その年にソ連に渡って設立されたばかりのモスクワの東方勤労者共産大学で学んだ劉は創立メンバーの中でも中核的な存在だったと言って良い。帰国後には中国共産党に加入し、27年には29歳にして党の中央委員に任命されている。そのころまだ国民党員だった毛沢東とは違って、筋金入りの共産党員だったことがわかる。43年には延安に戻り党中央書記処(現在の中央政治局常務委員会)の書記に就任。
同郷の毛沢東を党の顔として祭り上げて行ったのは劉だったかもしれない。というのは、彼は45年の中国共産党第7回全国代表大会で《关于修改党章的报告》を作り、その中で、中国共産党の歴史の中で初めて毛沢東思想を体系的に論じており、それは党規約《中国共产党党章》に明示的に書き込まれ、「マルクス・レーニン主義の理論と中国革命の実践を結合した毛沢東思想を、党のすべての仕事の指針とする」ことを提案したからだ。
廬山会議
その後は前回書いた通りの行動から、1958年11月の第8期6中全会で毛沢東は大躍進が失敗した責任をとる形で国家主席の辞任を表明し、翌1959年4月27日には、第2期全人代で劉少奇党副主席が新国家主席に選出された。1959年7月から8月に開催された中国共産党中央政治局拡大会議(7月2日 - 8月1日)と第8期8中全会(8月2日 – 8月16日)、いわゆる廬山会議で、国防部長の彭徳懐が大躍進政策を批判する上申書を提出、毛がこれを反革命と非難して彭は解任されたが、劉はこの解任決議に同意している。
彭は朝鮮戦争で中国人民志願軍を指揮した職業軍人で初代国防部長を務めていたが、
1958年5月から7月にかけて開催された第4回党中央軍事委員会拡大会議では、彭徳懐は会議の主宰者の立場にあったが、実質的には毛沢東が議論をリードし、「ブルジョア軍事路線」やソ連追随の「教条主義」批判がなされた。また、軍の指導体制の改編が行われ、党中央軍事委員会が党中央の軍事工作部門として全軍を統一的に指導する統帥機関であること、中央軍事委員会主席(毛沢東)が全軍の統帥であることが確認され、中国人民解放軍各総部は中央軍事委員会に直接従属することが定められた。その結果、国防部長は三つある人民解放軍総部の責任者とほぼ同列となり、軍令の権限を失うことになった。
つまり、国防軍が党中央軍事委員会に所属するようになった後に、国防部長すらも解任されたのだ。この軍の改編はちょうど毛沢東が大躍進を褒め称え、人民日報で取り上げるように言った時期と重なっており、人民日報の虚報の嵐の中で、国防軍の共産党私兵化が進んでいったことになるのだ。そしてその騒ぎの責任を毛に取らせて、まんまと国家主席の座に座ったのが劉少奇であったのだ。
彭徳懐の解任
そしてこの彭徳懐の解任が文化大革命の火蓋を切ることになる。
1959年7月2日,中国共产党中央政治局扩大会议和中国共产党第八届中央委员会第八次全体会议在庐山召开,通过《为保卫党的总路线、反对右倾机会主义而斗争的决议》和《关于以彭德怀同志为首的反党集团的错误的决议》。
右傾化反対の決議と、彭徳懐をソ連に準えて反党グループと位置付ける決議を採択したのだ。これは、スターリンはいったい誰なのか、というフルシチョフの問題提起に対して、中国においては当然その対象となる毛が、彭徳懐を反党グループと規定することで、話を逸らせたものだと言える。
彭の批判の内容は、
7月14日, 国防部长彭德怀写了一封“横直是写给主席自己作参考的信”,给毛泽东,批评大跃进是“小资产阶级的狂热性”,“要阻止斯大林晚年的危险”。
大躍進はプチブルジョワの熱狂性であり、スターリンの晩年の危険を阻止する必要がある、としたもので、それはフルシチョフのスターリン批判と似たものだった。これに対して、黄克诚、张闻天、周小舟らの多くが賛成したが、23日に毛が反撃に出て、この書簡が「ブルジョアジーの揺らぎを示すもの」であり、党への攻撃であるとした。そして”你是反中央,晚年”と、晩年という言葉を返して彭らを追い込んだ。この辺りのレトリックが、毛が得意とするところであったのだろう。会議終了後に、彭徳懐は解任され、彭、黄、張、周は「反党グループ」とされ、彭の意見に同調した幹部グループは「右寄りの日和見主義者」と分類されたのである。
これに先立って1959年4月、劉少奇が国家主席に就任した頃であるが、上海で湘劇(湖南省の地方劇)を見た毛沢東が、時の嘉靖帝に対して激しい直諫を行い投獄されたがのちに釈放された、清廉潔白な官僚として評価を得ている中国明中期の政治家である海瑞の「直言敢諫」精神を宣伝するようにいった。毛沢東はこの年8月の廬山会議で、大躍進政策の修正を求めた国防部長の彭徳懐を失脚させた後、「左派の海瑞(真海瑞)と右派の海瑞(偽海瑞)を分けなければならない」と述べた。『海瑞を論ず』等の歴史エッセイを発表していた当時の北京市副市長・清華大学教授の明代史研究者である呉晗は、これを受けて「海瑞について」(「論海瑞」)という文章を9月に人民日報に発表した。呉晗に海瑞を描いた戯曲執筆の依頼を受け、何回かの書き直しの後、1960年11月に完成した。題名は、当初は『海瑞』だったが、友人の勧めで『海瑞罷官』とした。『北京文芸』1961年1月号に掲載され、北京京劇団によって1961年2月11日より上演された。
これがあって、1965年11月10日、四人組の一人である姚文元は上海の新聞『文匯報』に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、京劇『海瑞罷官』に描かれた海瑞による冤罪救済は反革命分子らの名誉回復を、悪徳官僚に没収された土地の民衆への返還は農業集団化・人民公社否定を意図するものと批判して、文壇における文革の端緒となった。毛沢東はまもなく、本来は無関係だった彭徳懐解任と海瑞の罷免を強引に結びつけ、『海瑞罷官』は彭徳懐解任を暗に批判した劇という印象が急速に形成された。これが文化大革命の幕開けとなった。
国際的視点から見る文化大革命のきっかけ
ではなぜこの時期に突然この『海瑞罷官』がテーマとして浮上したのか。内政的にもいろいろあるのだろうが、それを追うには語学的にも私に取ってはなかなか大変なので、より一般情報が得られる国際情勢から追ってみたい。
まず、60年6月19日に激しい安保闘争の後、日米新安全保障条約が自然成立した。これによって日米共同防衛が明文化され、国連の関与にかかわらずアメリカ軍が日本の防衛に関わることが国際法上明らかになった。この時、内乱に関する条項も削除されており、国共内戦当時に共産党と国民党との間で争われたババ抜き、戦争の責任についての押し付け合いというものから、アメリカの庇護化において、日本は免除され、攻めてきたらやっつける、ということでそのババ抜きからは抜けて経済発展に集中できることになった。国内の混乱、内乱に乗じて列強の進出を許す、という近代に入ってからアジア諸国で繰り返されてきた悪弊から、とにかく抜け出すことになったのだ。
そうなると、まずは国共内戦でババを押し付けられた形の国民党、つまり台湾が動かざるを得なくなる。その前から蒋介石は国光計画というものを立てており、大陸侵攻というのが、かなり現実感のあるテーマとして取り上げられていた。ただ、それは、物理的に、という以上に、国政政治力学的に、アメリカの許可がなければできる話ではなかった。もっとも、国民党内もいろいろ複雑だったので、蒋介石自身が本当に本土奪還を目指していたか、というのは疑問が残る。そうでなければ、大躍進ももう終わる寸前になった1960年12月29日になってから、大躍進政策の失敗に乗じて大陸の解放を翌年に行うことが決定され、1961年4月1日、行政院に国光作業室(主任:朱元琮陸軍中将)が設置され国光計画が始動した、などという気の抜けたようなことはしないと思われるからだ。57年から中興計画室を準備しているのだから、59年の毛沢東が国家主席を辞め、劉少奇が代わりに就任するまでの空白期間に動きを起こさなければ機を逸していると言えよう。しかしながら、それは日米新安保条約が署名されて、国会で批准される間の空白期間でもあり、アメリカや日本の動きも読めなかったし、そして日本では安保闘争が起こっており、その結果次第ではアジアで大動乱が起こる可能性もあり、そんなに簡単な判断ではなかったと言える。そしてその後にはアメリカの大統領選挙があり、それが固まるまでは動きは取れず、結局ケネディが大統領に決まった60年の年末になってからの計画始動ということになったのだろう。
いずれにしても、国光計画は61年になってからようやく動き出し、62年になるとケネディにも働きかけをし、本格的に実行の可能性を探り出したが、61年5月にベトナムに軍事顧問団を送り込んですでにアジアでポジションを取ってしまっていたケネディ政権はなかなか動きにくい状態ではあった。このケネディの判断の評価次第でこの辺りの情勢分析も変わってきそうだが、今のところはなぜケネディが南ベトナムに軍事顧問団を送ったのか、という理由がはっきりとはわからないのでなんとも言えない。軍事顧問団の派遣にハリマンらの国務省ラインは反対だったというので、むしろ国務省が台中間で紛争を起こし、中国本土に戦乱を持ち込もうとしたが、蒋介石はそれには乗らず、そしてケネディもそうならないようにあえて南ベトナムに軍事顧問団を送ることでお茶を濁した可能性もある。一方で、彭徳懐がいなくなった後の人民解放軍というのは、おそらく士気がかなり低下しており、台湾が本気になって仕掛ければある程度のことは起こった可能性がある。その点でも、この判断というのは、蒋介石という人物をどう評価するべきかということに関わる重要なことであろう。1962年10月から12月にかけて、人民解放軍は広東省沿岸において国民党軍の9回に及ぶ海上突撃を阻止し、172名を殺害、舟艇三隻を撃沈したとし、12月10日付の『人民日報』は国民党軍の海上突撃を完全に撃退したと発表した、とのことだが、北へ向かわずに広東省沿岸に国民党軍が攻撃を仕掛けるというのもなんとも不思議な話で、むしろベトナムとの関係性で何かがあった可能性がある。11月には南ベトナムとラオスが国交断絶しており、北ベトナム優位になりつつあり、国と国との関係ではわからない状況があったのかもしれない。
1963年1月に蔣介石は再びアメリカに対して大陸反攻を打診した。このときには「この種の軍事行動は中国における国内問題であり、他国には関係の無い主権の行使である」と表明し、米華相互防衛条約の適用範囲外だとした。この時までにケネディ政権は政府内の大陸反攻に賛成的な意見を封じ込めていたため、国民党政権に対してこれからも台湾国民党政権を支援し続けるがそちらが当てにしている大規模な反乱が中国国内で起きるとは考えにくく、見込みのない大陸反攻には同意できないと明確に回答した。1962年のワルシャワでの会談以降中国の共産党政権による“台湾解放”が近い将来起こる可能性はなくなり、むしろ国民党政権による暴発的な大陸反攻により第三次世界大戦が起きることが懸念材料となっていた。また国民党政権側でも1963年初頭に中国大陸からの亡命者500人を対象とした聞き取り調査で「共産党への不満は高まっているが反乱を起こす兆候はない」という結果が出た。
これは、当時第三次世界大戦というのがかなり現実的な脅威として共有されており、その中で蒋介石がそれを国内問題で米華相互防衛条約の適用範囲外であるとしたというのは、まさに集団的自衛権発動による世界大戦の勃発を防ぐための英断であると言え、その後のベトナム戦争の悲惨さを考えると、この蒋介石の英断によって、アジアが戦争の惨禍から逃れることができた、という事実はもっと評価されるべきであろう。一方のケネディも明確に参戦しないとの回答をしており、この二人の戦争回避の努力があって、世界は黄金の60年代を謳歌することができたのだ、ということは銘記されるべきだろう。
64年10月16日に中華人民共和国が初の核実験に成功したことで、皮肉なことに現実的な第三次世界大戦の脅威は去ったと言える。
ベトナム戦争本格化
65年に入ると、選挙に勝って正式に民意を得た大統領となったジョンソンは、就任早々北爆の開始などによってベトナムへの介入を強める。中国が核兵器を持ったと言っても、アメリカ本土まで飛んでくるわけではないから、それならばアジアでもっと混乱を引き起こしてしまえ、という、ケネディとはうって変わったマチョイズムの時代がやってきた。
台湾は、蒋介石という優れた指導者のおかげでババ抜きから降りることができたが、もう一つの元日本の外地であった朝鮮はどうなったか。6月22日に日韓基本条約が締結され、こちらもようやく戦争から抜け出すきっかけができたのにもかかわらず、10月9日にはベトナム戦争に派兵し、参戦した。これにも、中国がらみで複雑な事情がありそうで、先にも書いたが彭徳懐は朝鮮戦争で中国人民志願軍を率いて戦った。これも数字は大きすぎてなんとも言えないが、とにかくこの朝鮮戦争でも多くの中国兵が亡くなったことになっているし、また捕虜となっただけでも2万人以上とされ、そのうち1.4万人が台湾に亡命したとされている。国光計画を強く後押ししたのはこの亡命中国兵である可能性が非常に高く、それも中国兵か、それとも旧関東軍の兵かというのも微妙なところで、そう言った朝鮮戦争がらみの人の流れが、日本では安保闘争を引き起こし、台湾では国光計画を後押ししたのではないかと考えられ、とにかく血の気の多い武闘派が多かったのであろう。そして、朝鮮戦争で戦死したとされる中国兵の中にも、そのまま南北朝鮮にいついた人々もかなりいたのではないかと考えられ、その圧力に抗しきれずベトナム派兵となったのでは、とも考えられる。いずれにしてもババ抜きでババを引いたことは間違いなく、結果的にはベトナム戦争から世界大戦に至ることはなかったので良かったが、世界大戦となっていれば、確実にその責任は韓国が負うこととなっていただろう。それが避けられたのは、ベトナム、そして中国の一般の人々の大きな忍耐のもとで成し遂げられたことであるというのは肝に銘じるべきなのだろう。
渦巻く陰謀
話を台湾関係に戻して、
1965年8月6日、福建省東山島沖で海上突撃部隊の支援を行っていた国民党海軍の『剣門』(旧米海軍オーク級掃海艇)と『章江』(旧米海軍PC-461級駆潜艇)が人民解放軍の魚雷艇の待ち伏せを受け、相次いで撃沈されるという事が起きた。これが東山海戦(八・六海戦)である。これにより劉広凱中華民国海軍総司令の引責辞退と国防部の人事一新に発展した。蔣介石もこの海戦以降作戦会議に参加する回数が激減し、国光作業室も作戦計画室に改称し、小規模な襲撃作戦や特殊作戦の指導組織になった。11月14日には烏坵沖でも海戦があり、国民党海軍の敷設艇が人民解放軍の魚雷艇により撃沈された(烏坵海戦(中国語版))。
これが文化大革命のきっかけとなった『海瑞罷官』事件の前後に起こったことであり、要するに、台湾をどれだけ挑発しても乗ってこなかったので、国内で内戦を起こそうという企みに切り替えた一党がいるということなのだと言える。実際、
1965年,毛泽东的妻子江青前往上海停留了幾個月,上海市长柯庆施指派张春桥和姚文元协助其工作。同年11月10日,由姚文元执笔的《评新编历史剧〈海瑞罢官〉》在上海《文汇报》发表,突然对多年来受到肯定的《海瑞罢官》进行批判。
ということで、毛沢東の妻江青が上海に何ヶ月か滞在し、上海市長の柯慶施は張春橋と姚文元を補佐役に任命した。 江青は65年2月に上海に着いたとされ、その後4月9日に上海市長柯慶施が謎の急死をしている。柯慶施は、当時存命の共産党幹部の中で唯一レーニンにあったことのある人物で、大躍進の時期には、それを支持する論文を書き、それによって毛沢東に気に入られ、一時期は周恩来の代わりに首相に据えるという話もあったという(新世纪 NewCenturyNet)。それが急死をし、過激派はなぜか劉少奇が暗殺したのだというふうに考えたのだという。
なぜ上海かと言えば、台湾から北京方面に向かえばそこが最前線となるわけで、また、ベトナム戦争のことも考えると、ことが起きるのは南からであり、その意味でも動乱を起こすにはもってこいの場所であるということがあり、そして市長を務めていた柯慶施がレーニンと会ったことがあるということで、共産主義の体系においては非常に価値が高かったということがある。この辺りは難しいところで、毛を実質的に引き上げた劉少奇との関係性では柯慶施はカードになるが、主席を劉少奇に奪われた状態では単なるライバルにしかならない、ということがある。ただ、江青が上海に着いて2ヶ月で死んでいるということは、江青は最初から柯慶施を殺して、それをきっかけに動乱を起こそうとしていたのではないかと考えられる。他にもなんらかの事情はあったのかもしれないが、カードとしてならばもっと有効な使い方があったような気がしなくもない。この辺り、おそらくソ連生活の長かった江青にとって、レーニンとつながる柯慶施という存在自体が疎ましかったのかもしれない。そんなくだらない理由で殺されたのだとしたら、文化大革命自体に意義を見出すことが難しいのも当然のことなのだろう。この段階でそこまで評価を決めつけてしまうのも視野を狭めるので、ここまでにしておく。なんにしろ、それで動かなかったので、『海瑞解官』事件へと移っていったのだろう。
結局文化大革命自体には入れなかったが、とりあえずはここまで。