集団心理と自由

社会の形成過程を考えるのに、集団心理と自由との関わりというのが一つのテーマとなりそう。
使いやすい概念なのでまたも簡単にゲゼルシャフト、ゲマインシャフトというのを使ってしまうが、この概念自体社会優先的な分析手法ではないかという気もして、そこをもう少し何とか整理するきっかけにもならないか、と考えながら書いてみる。

ゲマインシャフト的社会の特性

ゲマインシャフト的な社会は、元々血縁のような切っても切れない関係性があり、集団ありきの個人ということになる。その集団の中で自分の個性を見つめ、集団内での役割を探る、という行動が、スミス的な原始社会における社会的分業を形成する原動力となるのかもしれない。ゲマインシャフトにおいては、元々がより広い社会全体の中でみれば相対的に似たような性質を持った人が集まっているのだといえ、その中で役割を見つけるという行動自体、似たような個性を持つ人々の中での自らの個性を見つけ出すということになり、それは自分独自のケイパビリティを育むのに良い経験となるのかもしれない。

自生的ゲゼルシャフト

より広い社会は、ゲマインシャフトが拡張した先にあるものなのか、それとも自分の個性を生かして目的合理的なゲゼルシャフトを形成するのか、ということになりそうだ。本来的には個々人がゲマインシャフトの中で育んだケイパビリティをベースにして自らの目的を打ち立て、それに基づいてゲゼルシャフトの形成をしてゆくのが自由意志に基づいた個別の社会構築だということになりそうだ。その場合、自らの個性がまずあって、それを相互補完してゆく関係性構築によってゲゼルシャフトが形成されると考えれば、自発的な社会的分業体制が自然に構築されてゆく、ということになりそう。

ギルド的ゲゼルシャフトの特性

一方で、ギルド的職能集団ありきのような社会では、自分の核となるような職能を選択し、そこにすでに存在するゲゼルシャフト(こちらが本来的なゲゼルシャフトという言葉の使い方なのか?)に参加することでその職能を身につけるということになり、つまり、再び似たようなしかし今度はより高い職能技術を持つ人々の中で自分の居場所、役割を探す、ということになってゆきそうだ。これが社会的分業を促進するか、というと、集団としての社会の中での分業体制への参加はともかくとして、その中で個人の役割を見つけるという行動は、市場における分業とは少し異なり、それはすでにスミス的な工場内分業に近いものとなりそう。

ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの連続性

ギルド的社会の規模にもよるが、それはある意味でゲマインシャフトの拡張した先にある社会なのだとも言えそう。つまり、ゲゼルシャフトへの参加に、所属するゲマインシャフトの信用というものが大きく関わることになり、生まれ出たゲマインシャフトによってどんなゲゼルシャフトに参加できるのかの選択肢が大体決まってくるのだと言えそう。それは自由な社会であるとは言い難く、そしてそれゆえに、個人の自由意志に基づく部分が限定的になり、集団意志ありきとなって個人の自由意志はそこに従属させざるを得なくなってしまう。

集団意志の消費行動への影響

そのような社会においては、集団意志のありかを探る、という行動が集団内分業を定めるのに重要となってくる。集団がその時々でどの方向に動いているのかを見極め、その方向に基づいて自分の立ち位置、役割を定めるという分業形成であり、それは、スミス的な市場における需給によって価格と数量が決まるというあり方に大きな制限を加える。つまり、消費行動自体も自由意志ではなく、集団の中の役割に基づいてなされるという傾向が強まり、予算制約線に基づいて個々の効用の組み合わせによって消費行動を決めるという、(スミスの考えを発展させたといえる)新古典派的な自由意志に基づく消費行動という考え方を成り立ちにくくする。

市場メカニズムを歪める社会的意思決定

これは、効用が個人の目的合理性に基づく自由意志の発露なのか、集団の中で自らの立場を有利にするための社会的(?)功利主義の結果としてのそれなのか、という、大きな解釈の違いを生み出し、それは市場、そして組織というものをどう考えるのかということに非常に大きく影響する。前者ならば、ミクロ的な自由意志に基づく需給が価格と数量を自然に決めるというスミス的な単純明快な市場メカニズムが機能するのだと考えられそうだが、後者ならば社会的意志が価格形成に大きく影響し、それが独占的な需要を生み出すことで市場メカニズムの動き自体に影響を及ぼすことができるようになるのだと言えそう。そうすると、個々人の自由意志の尊重よりも、社会的意志の忖度の方が社会的に自らの立場を有利にする、端的に言えば利益率が高くなるということで、皆が社会の空気を読み合う、ケインズ的美人投票の世界となってゆくのだと言えそう。

社会的価値観の優越が導く破壊的競争の世界

すでに見たように、そうなると労働価値説は成立し難く、鞘取り的な価格形成、そして高値売り抜けの能力が問われることとなり、それは社会の生産性を大きく劣化させてゆく。これは、価値の源泉が個々人それぞれの価値観に基づくのか、社会的価値観をよみ、それを動かすことにあるのか、という違いから生じるものとなり、個の価値観に対して社会的価値観が優越することになれば、労働観も均一化し、それは社会的分業の成立自体を難しくして、単に目端の利き具合を競う競争的な椅子取りゲームとなってゆくのだろう。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。