悪魔の談話にいかに対応すべきか

河野談話の撤回が政治家によってなされないのは、いかに政治家の下半身がその談話によって担保されているかの証拠ではないかと感じる。田中角栄が炭鉱疑獄で政治家に流れた金の白黒についての基準を握って権力を手にし、三木武夫や海部俊樹がロッキード事件やリクルート事件でクリーンイメージ、それは得てしてマスコミ報道によって形成されるものであるが、それを用いて権力の座を獲たことに続き、総理にならずして下半身の基準を握ったことで、陰の権力基盤を確立したのだと言えそう。

それ以来、権力闘争はそれらの政治家の評価をいかにするのか、ということで政局の流れが定まるようになっているといえる。つまり演劇的政治の世界で、過去のどの政治家の文脈を引き、それをどう演ずるかということで、政治が動き、過去の歴史観や人物評価が固まるという政治的ダイナミズムが固定的に機能するようになったのだと言える。
そして今福田赳夫を源流とする清和会が圧倒的な力を持っているというのは、「人命は地球よりも重い」という氏の発言、つまり、他者の命をどうするのか、という権力の究極的とも言えるテーマが問われているという状況なのだと言える。しかし、権力であろうとなかろうと、人の命を奪うことなど正当化されうるはずもない。
だから問題は相変わらず嘘と責任転嫁による権力批判は許されるのか、という河野談話にあるのだといえ、そこに焦点が当たっていないということ自体、マスコミによる情報の歪みがいかに政治をミスリードしているのかということを示しているのだと言えそう。つまり、嘘と責任転嫁がここまで蔓延していても、権力は「人命は地球よりも重い」と言わなければならないのか、という、かなりのっぴきならない状況まできており、実際にかつて清和会の領袖でもあった安部元総理が殺害されたということは、それが「人命は地球よりも重い」と言った権力サイドに刃を突きつけたということを示すわけであり、嘘と責任転嫁はすでに権力をも凌駕していると言えるのかもしれない。

これは、権力を一つに集約し、そしてその上に蓋をするという、特に明治維新以降に帝国となり、その権威を持って国力増強を図ってきた日本の近代化の過程において、その規模を次第に拡大しながら繰り返されてきたプロセスがいよいよ最終段階に至っていると考えることができるのかもしれない。そのプロセスは、幾重にも、そして多方面に亘って展開されてきたので、その詳細について追うことは差し控えたいが、それが戦後に決定的に固まったのが天皇の人間宣言と欽定明治憲法の廃止・新憲法の国民投票すら経なかった制定、そして少し遅れてその憲法の改正を党是とする与党自自由民主党の成立ということになるのではないだろうか。それによって、政権与党が必死に取り組んでも改正すらできない、一体誰が作り、誰が承認したのかもよくわからないような憲法というものに頭を押さえつけられるという、法治主義によって自由が大きく制限された抑圧的民主主義が成立したのだと言えるからだ。
そのような新憲法下で、上に述べたような、金、それに対するカウンターとしてのクリーンイメージ、それに対する見事なまでの綺麗事である「人命は地球よりも重い」という言葉、そしてその命を生み出す下半身とそれを利用した戦争という、次から次へと被せて積み上げるメタ構造的な階層的抑圧の連鎖が重なり、そしてその最後の下半身と戦争については証拠のないいわば嘘とそれを国のせいにした責任転嫁であり、しかも内閣総辞職後にその与党自民党の総裁になりながら政府の役職としては官房長官として、すなわちもはや与党の総裁でもない内閣総理大臣の下で与党総裁の官房長官が出したという、政党政治的な責任が一体どこにあるのか、という究極の無責任とも言える談話が出されたのだ。これによって、嘘の上に責任転嫁まで認められたフィクション世界によって支配を行うというアニメーション的現実逃避の世界が具現化されることになったと言える。すなわち、嘘による論理構造で閉鎖世界を作り、その閉鎖的ミラー構造によって自分の言動が全て自分に返ってくるように設定を行い、それを誰かのせいにしてそれに戦いを挑むということを(自己)正当化させ、嘘と責任転嫁によって自発的に戦いに臨ませるという不条理極まりない世界を作り出して、世に必要もない恨みの因果連鎖を拡大再生産させ続けているという、まさに悪魔の談話だと言える。
この悪魔的世界が安倍元総理を死に追いやったと言っても良いのではないだろうか。犯人の責任追及というのは確かに必要なのだろうが、こんな不条理極まりない構造を作り出した責任こそが最も強く非難されるべきではないのだろうか。
そして、その責任追求をすべき政治家は、皆下半身を抑えられ何も言えない。もはやアニメーションどころではない劇画的世界だと言える。いったいこのような状況をどう打開したら良いのだろうか。とりあえず自分のできることとして、以下のような意見を内閣官房に提出した。今のところ、返事はまだ何もない。

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内閣官房としての解釈をぜひいただきたくこちらにご連絡いたしました。
まもなく30年となるいわゆる『河野談話』と呼ばれるものについて、一般的には官房長官談話とされ、外務省のウェブサイトでも『慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話』と内閣官房長官と明示されておりますが、内閣総辞職後の談話について公式に内閣官房長官談話であるとご解釈されているのでしょうか。もちろん、法的には総辞職後も次の内閣が成立するまでは前内閣が業務を行うことになっていると思いますが、形式的には官房長官談話は閣議決定がなされてから内閣の談話であるというようになるのではないかと考えます。この談話についての閣議決定は当時の宮澤改造内閣においてなされたのでしょうか。そして歴代内閣が踏襲するとしているのは、談話であると言っているように受け止められますが、その閣議決定についてということなのでしょうか。内閣官房としてもそういうご理解で外務省のウェブサイトに内閣官房長官談話と出ていることをお認めになっているということでしょうか。
内閣官房の職務としては「情報の収集調査」に該当するのかと理解しておりますが、収集調査に影響の大きな個人的見解が入っていることは職務の範囲内であるとご解釈されているのでしょうか。そしてそれが外務省のウェブサイトに掲載されているということは、そのような干渉について歴代の外務大臣は越権だと抗議することもなくずっと受け入れているということになるのでしょうか(こちらは外務省に伺うべき項目かと思いますが、念のために内閣官房のご解釈も伺いたいと存じます)。そして、それは今後外務大臣になる人についても無条件に受け入れないといけないということ、つまり外務大臣となる条件には河野官房長官談話という個人的見解をアプリオリに引き継ぐ、すなわち就任時点から内閣官房長官の個人的見解を受け入れていることを認めないと外務大臣にはなれないということになるのでしょうか。さらにそれは今後もずっと慣例として続く、つまり外務大臣は内閣官房長官の個人的見解に縛られるということ、すさわち外務大臣は内閣官房長官の事実上の指揮権下にあるということを認める必要があるということなのでしょうか。
以上、公式なご解釈を承りたく存じます。

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