記憶の狭間を埋める旅(6)
明治のお雇い外国人(2)
お雇い外国人について、前回の積み残しのフランス系の親玉とも言えるボアソナードを見る。
ギュスターヴ・エミール・ボアソナード
明治6年、ジョルジュ・ブスケの翌年に来日となっている。ブスケについては前回見た通り、江藤新平の民法整備を手伝っていた可能性があり、にもかかわらず、ボアソナード来日の翌年には佐賀の乱が発生し、江藤が討たれて法典整備の中心人物が失われることになった。そしてその翌々年明治9年にはブスケは帰国してしまう。
それによって、ボアソナードの存在感が一気に高まることになったと言えそう。これは、フランス国内の王党派と共和派、または独立派と親プロイセン派の対立構図が極東日本に輸出され、その代理戦争の形を取っていたとも言えそう。佐賀の乱のそのような国際的構図は意識する必要があるのかもしれない。
川路利良と警察制度
招聘者として川路利良の名が挙がっているが、警察制度や西南戦争における川路の歪んだ評価も含め、これはおそらく事実ではないと感じる。川路はジョゼフ・フーシェに範をとったフランスの警察制度を参考に日本の警察制度を確立した、とされるが、おそらく帝政下フランスの警察制度ではなく、共和政体になってからのものを導入しようとしたのでは、と感じる。フランス警察制度の歴史を調べる余裕はないが、ジョゼフ・フーシェは王政復古で追放されており、その警察制度がそのまま持続したのかはよくわからない。
いずれにしても、フランスの警察制度の特徴は
とされ、国家憲兵隊が地方部の治安を分担しているという仕組みであり、それは川路の整備した派出所を中心とした日本独特の地方警察制度とは明らかに異なっており、この解釈は様々な点で間違っていると判断せざるを得ない。私は、川路は非常に有能で、しかも民や地方の状況にしっかりと配慮した警察制度を導入した人物であると評価しており、それがボアソナードという権力志向性の強い法学徒を呼び寄せるようには到底思えない。むしろ、当時フランス留学中の西園寺公望が日本へと向かわせたのではないかと感じる。
プロスペール・ガンベ・グロース
ここで、プロスペール・ガンベ・グロースという御雇外国人がいる。
とあり、仮に新政府の警察にジョゼフ・フーシェ的な要素があったとしたら、それはボナパリストのこの人物の影響である可能性が高そうだ。
自然法原理主義者
自然法の定義にもよるが、ナポレオン法典に倣った民法制定に関わり、家族等について細かく法律で実体的に定めるということが果たして自然法的なのか、という議論は必要なのだろう。それが自然法ならば、当時でも民法典論争など起きるはずもなく、今になってもその民法の規定についてさまざま議論になっているのは、それが全く自然法的ではないからではないだろうか。これは、江藤がフランス法を丸写しすれば良い、といったとされることとの対比ではないかと思われるが、前回述べた通り、江藤の民法案は経済制度的に特化したものであり、そのような機能的な部分は合理的に書かれた方を丸写ししても大きく問題にはならないだろう。一方で、多様な形のありうる家族や親族について実定法的に書き込むというのはとてもではないが自然法的な立場だとは、私は思わない。
刑法典の整備
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