見出し画像

【Lonely Wikipedia】カム反乱に至るまで

前回、ジクメが交渉担当とは思えない態度を取ったと書いたが、それはどうも最近になってから作られているイメージのようだ。その後ジクメはパンチェン・ラマ10世とともにチベットの平穏化のために務めていたようで、ダライ・ラマ14世とはあまり良い関係ではなかったようだ。そのために、59年の十七か条協定破棄後、あるいはもっと降って文化大革命以降に、次第にその交渉過程が脚色されていったようだ。中国語版Wikipediaにその内容がないのも、ないことはかけない、という単純な事実に過ぎないようだ。

このあたり、ロラン・デエ(Laurent Deshayes ?)というフランス人学者が二次資料に基づいて書いたものがソースのようで、さらにはフランス語でしか情報が出てこない 10e Palden Pawo Rinpochéなるものの弟子となったとしている。
ジクメのチャムドの戦いでの火薬庫爆発の話もこのフランス人学者が原点なので当てにならない。これだから実相がさっぱり見えてこないのだろう。
チベットの情報には、特にダライ・ラマ14世側の立場で書かれたこのように怪しげな情報源が多くあるので十分に注意が必要となる。

さて、だから、十七か条協定は、当時は両者の合意のもとに受け入れられたと考えて良いのだと思われる。

1951年7月、協定に調印したチベット外交団(ンガプーを除く)と中国人民解放軍ラサ駐留司令官の張経武将軍がヤトンを訪れ、ダライ・ラマ14世に条約の有効性を認めるよう求めた。アメリカはダライ・ラマ14世に対し、亡命して協定の無効を訴えるよう呼びかけていたが、多くの僧侶がダライ・ラマ14世のラサ帰還を望んだため、結局ラサに戻って協定に基づいた改革をはじめることとなった。
1951年9月6日、ダライ・ラマ14世は9ヶ月ぶりにラサに戻り、その3日後に3000人の中国人民解放軍がラサに進駐した。チベット政府内で協定を認めるかどうかが話し合われたが、ラサの三大僧院長の強い意向もあり、9月末には議会で承認された。1951年10月24日、ダライ・ラマ14世は、「協定を承認し中国人民解放軍の進駐を支持する」旨の手紙を毛沢東に送った。この手紙はその後中華人民共和国の中国共産党政府が正当性を主張するのに大いに利用された。

このあたり、中国側の記録とは齟齬がある。

1951年6月,张经武作为赴藏代表,经新加坡转机,再经印度加尔各答、噶伦堡,7月16日到达西藏亚东与第十四世达赖喇嘛会晤,介绍协议情况。后达赖启程返回。23日,张经武前往拉萨。8月8日,抵达拉萨。9月28日,张经武带着毛泽东主席赠与达赖的礼物,到罗布林卡正式面见达赖喇嘛。10月18日、19日,张经武分别在色拉寺、哲蚌寺发放布施;24日,对拉萨居民发放布施。10月26日,18军两千五百余人由张国华、谭冠三将军率领从西康抵达拉萨;12月1日,18军一千一百多人在范明的率领下由青海抵达拉萨;20日,两支部队在布达拉宫广场举行会师大会。1952年2月10日,成立西藏军区,张经武宣读任命名单。3月7日,张经武兼任西藏工委书记。1952年3月至4月,拉萨的示威愈演愈烈,在张经武的要求下,达赖喇嘛取缔了“西藏人民会议”组织。

中央軍事委員会事務局主任であった張経武が代表としてチベットに赴いた。これは、シンガポール、カルカッタ、カリンポン、そしてヤドンに至っているので、空路でカルカッタまでゆき、そこからインド経由で南からチベット入りしたようだ。つまり、第18軍とは全く別行動であったことを意味する。
7月16日にヤドンでダライ・ラマ14世と面会し、協議の様子を説明した。その後、ダライ・ラマが先にチベットに戻ったように読める。23日に張経武もラサに向けて出発し、8月8日にはラサに到着している。ダライ・ラマがラサからヤドンについた時の日程を考えても妥当なものだと言えそう。しかし、日本語情報ではダライ・ラマのラサ入りはそこから一月も後の9月6日とされている。
なお、9月8日にはサンフランシスコ講和条約が締結されているが、それには中華人民共和国も、中華民国も招かれてはいない。米英共同で招請状が発行されたのは7月20日で、それはチベットとの十七か条協定が結ばれ、7月10日には朝鮮戦争の停戦協議が始まった後のことで、そんな状態であっても、中華人民共和国は講和会議に招かれなかったことになる。
日本語情報でのダライ・ラマのラサ入りの3日後に人民解放軍がラサ入りしたということならば、この講和条約締結の翌日にラサ入りしたということになり、それは朝鮮戦争の停戦にも影響を及ぼすだろうから、普通に考えればなさそう。それならば、10月25日に朝鮮戦争の停戦協議が再開され、その段階でチベットへの進出の合意もあり、そしてその翌日に第18軍がラサ入りした、という方が自然なように感じる。
これは、9月末とされる、チベットの議会での協定承認が、人民解放軍管理下で行われたか否かに関わることであり、前倒しの記録は、人民解放軍に強制されたのだ、ということにしたいダライ・ラマ側の意図によるものであろう。実際には中国側の記録の通り、9月28日に張経武が毛沢東の贈り物を持ってダライ・ラマ14世に正式面会し、それを受けて協定が議会承認された、ということであろう。

According to Tibetan sources, on 24 October, on behalf of the Dalai Lama, general Zhang Jingwu sent a telegram to Mao Zedong with confirmation of the support of the Agreement, and there is evidence that Ngapoi Ngawang Jigme simply came to Zhang and said that the Tibetan Government agreed to send a telegram on 24 October, instead of the formal Dalai Lama's approval. Shortly afterwards, the PLA entered Lhasa. The subsequent incorporation of Tibet is officially known in the People's Republic of China as the "Peaceful Liberation of Tibet" (Chinese: 和平解放西藏地方 Hépíng jiěfàng xīzàng dìfāng), as promoted by the state media.

英語版でもチベット側の記録として10月24日に張経武がダライ・ラマの代わりに協定支持の確認とともに毛沢東に電報を送っているとなっており、そしてジクメが張にそれを伝えたという証拠があるという。人民解放軍のラサ入りはそのすぐ後だとされており、10月26日の第18軍ラサ入りという中国側の記録の方が信頼性が高そう。そしてこの証拠があるために、ダライ・ラマ側はジクメを悪役にするために現在進行で工作を行なっているということなのだろう。
いずれにしても2日でラサ入りするというのは、そばまで人民解放軍が迫っていたことは間違いなさそうで、おそらくジクメは人民解放軍が入ってきたら十七か条協定が反故になる可能性を感じ、半ば独断で電報を入れたというようなことも考えられる。そうだとしても、議会の推薦があったものを1ヶ月近く許可せずにゴネていたのはダライ・ラマとその周辺であったことになる。

10月26日,18军两千五百余人由张国华、谭冠三将军率领从西康抵达拉萨;12月1日,18军一千一百多人在范明的率领下由青海抵达拉萨;20日,两支部队在布达拉宫广场举行会师大会。
1952年2月10日,成立西藏军区,张经武宣读任命名单。

その後、人民解放軍がチベット入りし、チベット軍区ができた。軍にはなるべく多くのチベット人を採用する、というのが十七か条協定で定められていたが、その内容を把握していないだろう第18軍とは摩擦が発生したかもしれない。2月には朝鮮戦争が終わり、連合軍捕虜になった17万人余りのうち10万人が送還を望まなかったということで、人民解放軍自体あぶれものの集まりのようなものだったかもしれず、そんな集団が数千人も駐留していれば騒ぎが起きない方が不思議なのかもしれない。

3月7日,张经武兼任西藏工委书记。
1952年3月至4月,拉萨的示威愈演愈烈,在张经武的要求下,达赖喇嘛取缔了“西藏人民会议”组织。

3月7日に張経武が西藏工作委員会書記となった。そしてその頃からデモが激しくなり、ダライ・ラマが西藏人民会議を組織するのを禁止するよう求めた、となっている。しかしながら、パンチェン・ラマ10世が前年の12月19日に西寧のクンブム・チャムパーリン寺を出発してラサに向かっており、その到着までは待たせようとしたのではないだろうか。デモが起きたとしても、ダライ・ラマと人民解放軍が組んで起こした可能性も十分にある。パンチェン・ラマのラサ到着は52年4月28日であり、その足でダライ・ラマと会談をし、パンチェン・ラマの地位について合意がなされた。6月には歴代のパンチェン・ラマが座所としていたシガツェ市のタシルンポ寺に戻った。
これによって、チベットにもしばらくの安定がもたらされたようだ。ただ、この期間は、中央では憲法問題が白熱してきており、中央人民政府と中国共産党との間に次第に亀裂が入り始めていた。そんな中、

1953年底到1954年初,张国华、范明等人赴北京参加西藏工作讨论会,张经武没有参加,在会前他写了《自我检讨及今后工作几点意见》。

54年の1月15日には、毛沢東が憲法問題について本格的に動き出している。その時に合わせてチベット問題も話し合われたか、そこに張国華らが参加したとのこと。
なお、この53年は、年始からアイゼンハワーがアメリカ大統領として就任し、2月には議会に台湾海峡中立化の解除を謀った。それを受けて中華民国は中蘇友好同盟條約を破棄し、モンゴルの独立を認めないことを決めた。さらには、3月には台湾が雲南・ミャンマー国境沿いの反共ゲリラを支援しているとして、ビルマが国連に提訴している。また、7月には朝鮮戦争の停戦協定が結ばれ、10月にはラオスが、そして11月にはカンボジアが相次いでフランスから独立している。
3月5日にはスターリンが亡くなり、集団指導体制に移行し、9月にフルシチョフが第一書記になるまで不安定な状態が続いた。

アジアと世界の激動が起こっている中で、チベットは暫しの平穏を謳歌していたことになる。

7月15日,张经武陪同达赖喇嘛离开拉萨,9月4日抵达北京,参加第一届全国人民代表大会。1954年9月,他出席第一届全国人大第一次会议讨论宪法草案,期间并发言。9月11日,张经武陪同达赖喇嘛、班禅喇嘛与毛泽东主席会面。
1954年9月,十世班禅同达赖喇嘛一同前往北京,出席了第一届全国人民代表大会第一次会议,讨论宪法草案,期间并发言。,27日当选为全国人民代表大会常务委员会委员,12月25日当选为全国政协副主席。在此期间,十世班禅多次与毛泽东、刘少奇、周恩来等领导人会面。

54年9月に第一期人民代表大会に参加するために、張経武、ダライ・ラマ14世、パンチェン・ラマ10世が北京へ行く。

54年に入っても周辺では慌ただしく動いていた。1月に朝鮮戦争で捕虜になっていた人民義勇軍の捕虜が14,209人台湾に送られた。これは、台湾に反共主義の戦力が加わったことを意味する。
3月8日には日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定が締結され、日本の再軍備に向けての動きが始まった。7月1日には自衛隊が発足している。
4月28日には中国にいるソ連人の送還を始めた。翌年までに11万人が送還されたということで、満州にどれだけの外国人が入っていたかがわかる。
4月29日には、中国とインドが「平和的共存の5原則」を確認し、6月28日に発表された。
5月に入るとベトナム情勢が風雲急を告げ、7日にディエンビエンフーの戦いでベトナム軍がフランス軍を壊滅させた。翌日から関係国が集まってジュネーブ会議が始まった。7月3日にフランス軍が撤退を始め、20日に停戦協定が結ばれた。
9月にはアメリカのダレス国務長官が台湾を訪れ、米中問題を話し合った。その9月の3日には中華人民共和国が台湾領の金門島に砲撃を開始した。
こんな中で9月15日から28日にかけて開かれたのが第一期全国人民代表大会だった。

話されたことは、憲法をはじめとした国の基本的な枠組みについてであった。

この頃から中国に自治区に入らずに中国に編入されたアムドとカムで少しずつ摩擦が顕在化しだす。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。