功利主義
功利主義についてよく理解していない様なので、自分なりにまとめてみたい。
功利主義は、ジェレミ・ベンサムによって主張された、「(最大多数の)最大幸福」を社会の目標として追求する、という考え方で、のちにジョン・スチュワート・ミルによって精緻化され、さらに限界革命によって効用を数値化することで経済学の中に組み込まれ、それが近代経済学以降の経済学の一つの核になっているのだと言えそう。
ベンサムについてみてからこの考え方の背景に迫ろうとも思ったが、さっとみたところ、それほどの魅力も感じなかったので、この考え方だけを例の如くWikipediaから軽く拾い読みして済ませることにする。
ベンサムによる定義
ベンサムの定義によると
人の行動は幸福を増すか否かで判断されるべきで、それは個人だけでなく政府にも当てはまる、とのこと。非常に明快な定義で、それらしく聞こえるのだが、いくつも問題を内包していそう。なお、私は、ベンサムの本を原書はもちろん、訳でも読んだことはないので、多分勘違いは多くあるだろうが、それは、後にも書く通り、ベンサムの意図を離れて功利主義という言葉が広まって現代社会に大きな影響を及ぼしているという意味も含めて、現代的功利主義について私が一般的に受けている印象について書いている以上、齟齬があるのは避けられないことだと思ってご容赦いただきたい。そしてなんらかの齟齬があるのならば確認したいと思ってベンサムについてさっと調べてみたが、それほどまでにかけ離れている感じも受けなかったので、一般的な感覚論で書くことにした、ということもご理解いただきたい。
痛みと喜びの間で
まず、一番大きな問題として指摘したいのは、尺度が痛みと喜びの間でしかない、というのはあまりに極端で単純ではないかということ。別に、大雑把に言ってそんなものだ、ということを否定するわけではないが、そうであるべき、とか、それに基づいて行動や政策が判断されるべき、などと言われると、そんな単純じゃない、と言いたくなるもの。そしてそれは、えてして、喜び、そして幸福の押し売りとなる。押し付けられた喜びが幸福なのか否か、という問題は発生しうるだろう。
幸福の数学的処理の問題
次いで、利害関係者の幸福を増すか減らすか、あるいはそれを促進するか押しとどめるかが承認、非承認の基準になるとのことだが、百歩譲って1対1の関係性で合意が成り立ったときにはその原則が有効であるということを認めるにしても、1対1の関係性というのは非常に成り立ち難い状況であり、個々人が異なった社会的背景を持つときに、その対等な関係性を作り出すのは非常に難しく、だから、その幸福というのが個人にとっての幸福なのか、その所属する社会にとっての幸福なのか、ということ、そしてその社会とは一体なんなのか、ということを含めて、幸福という抽象的概念の増減の定量化などという頭でっかちの考えではとてもではないが割り切れるものではない。
現実離れした功利主義の政策・制度応用
さらにそれを政策の判断基準に用いるなどというのはますます持って不可能に近い。定量化の難しさというのはその後の経済学への適用の中でもずっと問題になったことであり、定量化できないものを判断基準にすべき、と言われても、全く基準になりようがない。よく、功利主義が民主主義のベースになる考えだとも言われるが、代表者を選ぶ間接民主制において、その代表を痛みと喜びのスペクトラムの中で選ぶなどという考えがベースになっていると言われても、その意味するところが全く不明で、そんなことでは、そもそも民主主義が機能しないのも当然だよな、と思わざるを得ない。つまり、功利主義と間接民主制を直接につなげる経路などは存在しないのだ。にもかかわらずその代表者は功利主義に基づいて幸福観の押し付けを行い、そして結果責任と言いながら、相対的には定量化しやすいはずのその政策の功利主義的帰結すらも明らかにされることがないまま選挙という”禊”でリセットという不毛なループが続くことになる。元々不可能なことを無理に現実に応用し、そしてそうしたつもりになっているからこの様な不毛な政治ゲームが延々と続くことになるのだろう。とにかく、功利主義は政策判断には不向きだし、現実問題として制度的にもそれは全く反映されていないのだ、ということを一旦認めて、ではどうするのか、ということを考えないと、功利主義的政治観のくびきから逃れることはできないのだろう。
功利主義の経済学への適用
さて、功利主義的効用の経済学への応用の努力が進むにつれ、功利主義自体が全く人に幸せををもたらさなくなっていく様子を見てみたい。
限界革命による効用の定量化
まずは限界革命によって、効用が経済学に適用される様になったとされるが、私の理解の範囲内では、効用の経済学への応用は無差別曲線によるものにとどまっており、それはミクロ経済分析にしか用いられず、社会的な総量としての政策判断に影響する様なマクロ経済的枠組には取り入れられていない。つまり、功利主義を政策応用しようとしても、それは個別政策が効用を増す度合いを比較して効用をより多く増すものに資源の優先配分するという形でしか応用できないことを意味する。そしてそれは、何がより多いか、ということの主観的判断の応酬ということになり、結局は予算分獲りによる政治の経済介入を正当化することにしか役に立っておらず、経済学的議論のベースというよりも、政治的闘争の正当化のツールになっているのだと言える。
ケインズ的市場観による功利主義の変質
続いて、ケインズによる美人投票という市場観の登場によって、効用というのが、社会的に”美人”であると評価されることだ、という、個人的効用の社会化という局面に突入した。これによって、1対1の対話によってお互いの個人的効用を最大化する様な功利主義的判断を行うよりも、1対1のマッチアップに勝利して自分の社会的ステータスを上げることの方が効用が高くなるという、非常に歪んだ功利主義の現実応用の時代になったのだと言える。この局面を、ベンサムはもちろん、ケインズすらも予測していたか、ましてや望ましいと思っていたかなどというのは全くわからないが、とにかく功利主義はここでベンサムやミルの想定をはるかに超えたものに変質したのだと言える。
厚生経済学の基本定理という悪魔の定理
さて、限界革命により近代経済学に採用された効用は、パレート効率性という概念によって厚生経済学への道を開いた。これによって効用の社会全体での効率性についてのベースとなる考えができたと言えるのだが、しかしながら、ケネス・アローとジェラール・ドブリューによって厚生経済学の基本定理が数学的に証明され、「消費者の選好が局所的非飽和性を満たせば、競争均衡によって達成される配分はパレート効率的である。」という非常に現実離れした定理が与えられたことで、ますます功利主義が人に不幸をもたらす様になる。つまり、効用が高まった、と考えた瞬間にそれを確保してゆく、という利益確定行動を前提として、それによって達成される配分がパレート効率的、つまり誰の効用も犠牲にせずに達成される最大の効用、望ましい資源配分となる、ということが定理として定められたのだ。これは、競争に勝ち抜いたものによる資源配分が望ましい資源配分であるということを定めた、非常にタチの悪い、厚生もないもあったものではない極悪理論だと言える。常に競争し続け、それに勝って勝って勝ち続けることが望ましい資源配分だというのだ。一体それは、誰にとって、何が望ましいというのか。
脱功利主義の経済学の必要性
これらの、功利主義の経済学理論への適用によって、もはや功利主義は、元々の考えがなんであれ、その面影をほとんど残していない、単なる弱肉強食補強理論となっており、しかもそれが「厚生経済学」というもっともらしい名で望ましい資源配分を保証しているとお墨付きを与えられているという、ガリバーもアリスもびっくりのあべこべの世界を作り出している大元となっている。この様に、害悪を振り撒いているだけの功利主義は、一旦白紙に戻して、経済学理論なるものも、いったん功利主義はないものとして、本当に人に幸せをもたらすものはなんなのか、ということから考え直す必要があるのではないだろうか。
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