【Lonely Wikipedia】1880年代
なかなか思う通りに進んでゆかないので、進められるところから進めてゆきたい。
1880年台は、経済としては金本位制が西欧諸国でほぼ確立したことを受けて、金融的には人口増加も相俟ってデフレ傾向が続いていたが、産業的には第二次産業革命の技術の広がりがあり、特にアメリカを中心にして発展が続いていた。しかしながら、デフレ傾向の中で有効需要は思うように拡大せず、それを外交的に解決するということで、1884年にベルリン会議が開かれ、アフリカ分割に代表される新植民地主義の時代の幕が開いた。技術の進歩を民生にではなく、軍事、侵略に用いる、という、のちの軍産複合体のようなものの原型は、この時代に作られたと言っても良いのではないか。
ここでも、別項までは立てられない、西ヨーロッパやアフリカ以外の目立ったことについて少しだけ触れたい。
アチェ戦争
アチェ戦争(インドネシア語: Perang Aceh)は、1873年から1904年にかけて、スマトラ島北部のアチェ王国(アチェ・ダルサラーム王国)とオランダ王国の間で行われた戦争。インドネシアではオランダ戦争、異教徒戦争とも呼ばれる。1873年初頭にアチェとアメリカの代表がシンガポールで会談したことを発端とし、アチェ最後のスルターンであるムハンマド・ダウド・シャーが1903年に降伏して翌1904年にアチェがオランダに併合されたことで戦争は終結したとみなされているが、その後も1914年まで大規模な抵抗が続き、散発的な反乱は第二次世界大戦期まで続いた。
オランダは、あたかも近世を通じてアジア貿易で圧倒的な力を持っていたかのように考えられているが、そんなことは全く幻想に過ぎないことを明らかにする事例がここにある。アチェ王国は、スマトラ島北部を支配していたイスラム王国であり、その要衝を支配するのに30年以上もかかったという話だ。
アチェ王国は、16世紀ポルトガルが進出してきた時に、オスマン帝国に援軍を求め、そこから大砲などの軍事技術を入手したことで、強力な軍事力を持ち、独立を維持してきた。オランダのインドネシア支配の拠点はジャワ島のジャカルタなどにあったとされるが、アジアへの入り口であるアチェ王国が独立勢力として存在する中で、その奥に強力な支配を広げられたとは思えない。あったとしても、香辛料貿易のための拠点くらいだろうし、それにしてもアチェ王国が胡椒取引の大部分を抑えていたようだから、オランダ人が直接調達できるような状況にはなかっただろう。つまり、19世紀以前に東南アジアにおけるオランダの存在感というのは非常に限定的であったと考えられる。
その状況が変わったのが、ナポレオン戦争のどさくさで、フランスが元オランダ領であったと称する東インドを占領したのだ、という話を作り、それをイギリスが没収し、さらにオランダに返還する、という手続きをとって、オランダが19世紀以前にも実効支配していた、という既成事実化を行なったのだと言えるのだろう。それが定まったとされるのが、1824年の英蘭協約であり、それは、マラッカ海峡を境にマレー半島側とスマトラ島側でイギリスとオランダの勢力範囲を定めたものだった。しかし、それはあくまでも英蘭間の協定であり、アチェ王国がそれによって自動的にオランダの保護国になるとかいう話ではなかった。英蘭協約については非常に興味深いのだが、ここでは深くは突っ込まない。
とにかく、この協約があって、その後1869年にスエズ運河が開通したことによって状況が変わった。アジア交易のルートが大きく変わったのだ。それを受けて1872年にイギリスとの間に条約を結び直し、オランダはスマトラ島の権益を確保したのだ。これは、別の条約によるガーナの権益との交換ということになるが、ガーナの状況についてはまた複雑になるので別に考えたい。
1873年、シンガポールでアチェ王国とアメリカの現地駐在所の代表が、二国間条約締結に向けて会談したことを受けて、オランダはアチェ王国の併合を企てることになる。イギリスとオランダという第三国間で結ばれた協約の影響を受けて戦争をふっかけられるなどというのは不条理極まりないのだが、アチェの胡椒が欲しくてたまらないオランダはなりふり構わず戦争を仕掛けたのだと言えそう。これは、アチェ王国の有力な後援国であるオスマン帝国の財政が悪化し、破産寸前になっているということと関わっていそう。つまり、オスマン帝国を揺さぶるのに、その富の一部を成していたかもしれない胡椒の交易路をつぶしてしまおうと考えた可能性があるのだ。
オランダは、短期で勝負を決めるつもりだったらしいが、結局泥沼化していった。ガーナの植民地を5万ギルダー足らずで売り払って手に入れたスマトラ権益だが、そこにかかる戦費に毎年1500−2000万ギルダーを注ぎ込んだという。スルターンがいなくなれば片付くだろう、と甘く見ていたようだが、首都を陥落させ、スルターン制を廃止しても、屈服させることはできず、そこから数十年にわたるゲリラ戦が展開されることになった。誇りある人々をそのように力任せに従わせようとしてもうまくいくはずがないのだ。それは結局、さまざまに波紋を広げながら、第二次世界大戦の日本占領、そしてその後のインドネシア独立戦争、その後の自治運動まで延々と尾を引いていることになる。オランダがその真摯な総括を行うことで、アチェ、スマトラに限らず中近世アジアのより真相に近い姿が明らかになることを期待したい。
セルビア・ブルガリア戦争
1885年にセルビアとブルガリアの間で戦争が起こった。とはいうものの、陰謀あふれる乱世において、非常に心地の良い戦争ごっこであったと評価できそう。のちにバルカンはヨーロッパの火薬庫などと呼ばれるようになり、現代に至ってもジェノサイドが起こったりもしたが、元々はこのように知恵を絞って成り立った国々であったということが思い出されることを期待したい。また、上のオランダのオスマン帝国への揺さぶりの裏にこのようなことがあったという世界史の連動性のようなものにも注目したい。
元々、セルビアやブルガリアを含めたバルカン半島全体は、近世になってからオスマン帝国が進出し、その支配下に入っていた。それが、度重なるロシアの南下によって、オスマン帝国はバルカンを維持できるような状態ではなくなっていた。クリミア戦争によってついにロシアは黒海にまで至ろうとしたが、これはフランスとイギリスの介入によって何とか食い止めた。そのクリミア戦争は、ロシアの皇帝がアレクサンドル2世に変わって終戦となった。アレクサンドル2世は国内の改革を熱心に行い、農奴の解放など、自由主義的な政策を推し進めた。一方、外務大臣にはゴルチャコフを任命し、外交における主導権を次第に確保していった。その頃ロシアは、フランスとの同盟関係を築こうとしたが、ナポレオン3世がポーランド独立運動に手を貸したことから関係が悪化した。ロシアがフランスに近づこうとしたのは、クリミア戦争の後に結ばれたパリ条約で、黒海での活動が制限されたことを撤廃させようとしたものであったが、ナポレオン3世の下ではそれが難しそうだったところ、普仏戦争によってナポレオン3世がプロイセンに捕まるということがあったので、そのどさくさに紛れてパリ条約の破棄を宣言した。
そのプロイセンはオーストリア、そしてフランスと次々に戦争を仕掛けて勢力を拡大させていた。ロシアは、普仏戦争後にプロイセン、オーストリアと三帝同盟を結んでいたが、民主化されたフランスは支持する方針であり、1875年の『ポスト』紙事件によってドイツ帝国とフランスとの緊張が高まったときには、アレクサンドル2世とゴルチャコフが直接ベルリンに赴き、調停を行うということがあった。これに対してビスマルクは反感を持ったようだが、ロシアを敵に回すわけにもいかず、これによってようやくプロイセンの大拡張の時代が終わりを遂げたと言えそう。
1878年に露土戦争が起こり、翌年サン・ステファノ条約が調印された。実はこの露土戦争自体、オスマン帝国側にはほとんど戦う気がなく、セルビアとモンテネグロの反乱に対して鎮圧したものの、ロシアを招いて和平交渉を行い、決裂したということで戦端が開かれ、1年にわたって交戦したことになっているが、これは実は、政治が安定しないセルビアのための時間稼ぎのようなものだったと言え、そのセルビアが戦線復帰したところで講和条約が結ばれ、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立とブルガリア公国の成立が定められたのだった。そして、賠償金の代わりとして領土割譲が行われ、オスマン帝国はバルカン半島からの撤退を比較的平和裡に成し遂げたのだった。
しかし、それに対してイギリスとオーストリア・ハンガリー帝国が反対したとされ、ドイツが第三国として調停を申し出てベルリンで会議が行われた。それはビスマルクが主導権を握って開催したもので、当事者であるセルビアなどはオブザーバー参加にとどまり、またロシアはほとんど言い分を通せず、ドイツ帝国の強い影響力のもとにベルリン条約が結ばれた。それによってブルガリア公国の統一は禁止された。
その後、ロシアでアレクサンドル2世が暗殺され、ゴルチャコフも解任されて、ドイツ系の外務大臣が就任した。これによってバルカン情勢も一気にきな臭くなり、その扱い次第では戦乱が再発してもおかしくない状況となった。
そんな中でオスマン帝国の支配下に残ることとなったブルガリア文化圏の東ルメリで85年に独立運動が起き、ブルガリア公のアレクサンデルがロシアの意向を無視してこの地域の併合を強行した、とされる。これは、実際には、バルカン半島にスラブ文化圏が広がることを嫌ったビスマルクがブルガリアの統一をさせないようにしたのを、それを武力で押さえつける気のないオスマン帝国と、直接介入せずに自治による独立ということでドイツの干渉を避けようとしたロシア、アレクサンドル3世との間で暗黙の合意があったように感じられる。結局ロシアはその統合は、アレクサンデルが君主を務める間は認めない、という方針で、ブルガリア軍幹部のほとんどを占めていたロシアの軍人も引き揚げさせるという、強硬とも言える態度を示した。そこに、82年に建国されたばかりの、同じくスラブ語圏であるセルビアが、ブルガリア統一はベルリン条約違反である、と言って攻撃を仕掛けたのだ。ドイツが介入するのならば、このタイミングでしかなかったのだが、ロシアが武官引き上げまでしている中で、そこに介入するというのは国際世論としてはほとんど不可能であった。セルビアは攻撃を仕掛けたものの、あっという間にブルガリア軍に反撃を受け、首都のベオグラードまで攻め込まれる、ということになった。結局そこで講和となり、国境線は戦前のまま、そしてブルガリア統一を認める、という形で、ドイツの介入なきままにベルリン条約を骨抜きにしてしまったのだ。そしてその後には、統一がらみでブルガリア国内が色々ゴタゴタしながら、ロシアがアレクサンデルを認めないという態度を崩さなかったので、ザクセン=コーブルク=ゴータ家からフェルディナントを迎え、最終的には彼が国王となることでブルガリア王国が成立したのだった。彼の母親クレマンティーヌ・ドルレアンは、ハプスブルク家の血を引いていたが、莫大な財産を持っており、それをブルガリアに惜しげも無く投資し、鉄道網を整えるなどのことを行い、そしてフェルディナントもその息子を正教に改宗するするという、自らが現地に溶け込もうとする努力を行い、それによって、事実上平和理にブルガリアの独立、統一、そして王国成立が成し遂げられたのだ。乱世において、このような奇跡が起きてしまったことが、逆にのちに民族自決の原則を押し付けられて民族対立を煽られる原因になったのかもしれない。いずれにしても、世界史における奇跡として、この事例は長く語り継がれるべきものではないだろうか。
なお、セルビアの情勢についてはより複雑なので、また別に書ければ書きたい。
以下、例の如く年表からの抜き書きのメモなので、特に読むところはありません。
Photo from:
Politics and wars
Wars
* Aceh War (1873–1904)
* War of the Pacific (1879–1884)
* First Boer War (1880–1881)
* Mahdist War (1881–1899)
* 1882 Anglo-Egyptian War (1882)
* 13 September 1882 — British troops occupy Cairo, and Egypt becomes a British protectorate.
* Sino-French War (1884–1885)
* Serbo-Bulgarian War (1885)
Internal conflicts
* American Indian Wars (Intermittently from 1622 to 1918)
* 20 July 1881 — Sioux chief Sitting Bull leads the last of his fugitive people in surrender to United States troops at Fort Bufordin Montana.
* Frequent lynchings of African Americans in Southern United States during the years 1880–1890.
Colonization
* France colonizes Indochina (1883)
* German colonization (1887)
* Increasing colonial interest and conquest in Africa leads representatives from Britain, France, Portugal, Germany, Belgium, Italy and Spain to divide Africa into regions of colonial influence at the Berlin Conference. This would be followed over the next few decades by conquest of almost the entirety of the remaining uncolonised parts of the continent, broadly along the lines determined. (1889)
Prominent political events
* 3 August 1881: The Pretoria Convention peace treaty is signed, officially ending the war between the Boers and Britain.
* 3 May 1882: The Chinese Exclusion Act was signed into law by President Chester A. Arthur.
* 1884: International Meridian Conference in Washington D.C., held to determine the Prime Meridian of the world.
* 1884–1885: Berlin Conference, when the western powers divided Africa.
* The United States had five Presidents during the decade, the most since the 1840s. They were Rutherford B. Hayes, James A. Garfield, Chester A. Arthur, Grover Cleveland and Benjamin Harrison.
1880年
* 1月1日 - パナマ運河着工(1889年放棄)
* 1月12日 - 共済五百名社(後の安田生命)設立(日本初の生命保険組織)
* 2月17日 - アレクサンドル2世暗殺未遂
* 2月22日 - 横浜地震
* 2月28日 - 横浜正金銀行(後の東京銀行)開業
* 3月30日 - 村田銃制式化
* 丸善設立(丸屋商社より改組)
* 4月17日 - 日比谷大神宮落成
* 4月18日 - 英国で第2次ディズレーリ内閣(保守党)が総辞職。
* 4月28日 - 英国で第2次グラッドストン内閣(自由党)が成立。
* 新約聖書の邦訳刊行
* 6月7日 - 太平洋戦争(南米): アリカの戦い(英語版)(Battle of Arica)
* 6月29日
* タヒチ島がフランスの領土となる
* 東京代言人組合(後の東京弁護士会)設立(会長星亨)
* 7月17日 - 旧刑法と治罪法(後の刑事訴訟法)制定
* 8月14日 - ケルン大聖堂が建設開始から600年以上たって完成(着工1248年)
* 9月12日 - 東京法学社(後の法政大学)開校
* 9月16日 - 専修学校(後の専修大学)開校
* 9月23日 - ジュール・フェリーが仏首相に就任
* 10月8日 - 小笠原諸島が東京府に編入
* 11月2日 - 米大統領選挙でジェームズ・ガーフィールドが勝利
* 11月5日 - 工場払下慨則制定(官営工場払下げ開始)
* 11月10日 - 国会期成同盟第二回大会開催(東京)
* 12月17日 - 臼井六郎による仇討ち事件(武士の仇討ちとして日本最後)。
* 12月26日 - 第一次ボーア戦争( - 1881年)
* 12月28日 - 教育令改正公布
1881年
* 1月4日 警視庁再設置
* 1月14日 - 憲兵設置
* 1月17日 - 明治法律学校(後の明治大学)創立
* 1月26日 - 両国大火(神田から出火し隅田川を渡り本所深川まで延焼、焼失10637戸)
* 2月24日
* フランスの実業家、フェルディナン・ド・レセップスが、パナマ運河を起工
* ロシア帝国・清間でイリ条約締結
* 3月1日 - 第2回内国勧業博覧会開催(上野公園、 - 6月30日)
* 3月4日
* ジェームズ・ガーフィールドが第20代米国大統領に就任
* ハワイ王国国王カラカウアが、10か月に亘る世界一周各国歴訪旅行のアジア最初の訪問地として日本を訪問、日本を訪問した初の国家元首となる(同月22日まで滞在)。同月11日、赤坂仮御所を訪問、明治天皇との単独会談を行い、ハワイ・アジア連合を構築し明治天皇がその盟主となることを提案する。山階宮定麿親王と自分の姪であるカイウラニ王女の結婚を願い出るが断られる。但し、同時に申し出た日本政府公認の移民(非公認の移民は明治元年1868年に既にハワイに入植していた)については後年実現することとなった。
* 3月13日 - ロマノフ朝第12代皇帝アレクサンドル2世が暗殺される。翌日アレクサンドル3世が第13代皇帝に即位。
* 3月18日 - 東洋自由新聞創刊(主筆中江兆民)(4月30日廃刊)
* 3月23日 - 第一次ボーア戦争: 停戦協定
* 3月26日 - ルーマニア王国成立(初代国王カロル1世)
* 4月5日 - 大日本農会創立
* 4月7日 - 農商務省設置(初代農商務卿河野敏鎌)
* 4月18日 - 大英自然史博物館開館
* 4月27日 - ロシア帝国でエリザヴェトグラードからポグロムが始まる
* 4月30日 - 東洋自由新聞廃刊
* 5月12日 - チュニジアがフランスの保護国となる
* 5月16日 - ベルリンで世界初の電気路面電車が走行
* 6月28日 - セルビアがオーストリア=ハンガリー帝国の保護国となる
* 7月2日 - 米ガーフィールド大統領が背後から銃撃を受け重傷を負う(ガーフィールド大統領暗殺事件)
* 7月9日 - 明治生命創業(日本初の生命保険会社)
* 7月14日 - ビリー・ザ・キッドがギャレット保安官に射殺される
* 7月16日 - アイルランド土地法(1880年法)成立
* 7月23日 - チリ・アルゼンチン間で国境条約締結
* 開拓使官有物払下げ事件
* 8月3日 - 第一次ボーア戦争: プレトリア協定締結
* 9月19日 - 米ガーフィールド大統領が死亡
* 9月20日 - 米アーサー副大統領が大統領に昇格
* 10月12日 - 国会開設の詔(9年後の国会開設を約束)
* 10月18日 - 自由党結成(板垣退助)
* 10月26日 - 保安官のワイアット・アープとクラントン兄弟らアウトロー「カウボーイズ」がアリゾナ州トゥームストーンのO.K.コラル付近で銃撃戦(OK牧場の決闘)
* 11月5日 - 仏フェリー内閣総辞職
* 11月11日 - 日本鉄道設立(日本初の私鉄)
* 11月14日 - 仏ギャンベッタ内閣成立
* 12月8日 - 褒章条例公布(紅綬・緑綬・黄綬・紫綬・藍綬・紺綬の褒章を規定)
* 12月28日 - 陸軍刑法・海軍刑法制定
日付不詳
* ドイツの歴史家、レオポルト・フォン・ランケ、『世界史』の編纂に着手
* スーダン地方で、マフディーの反乱
* エジプトで、アラービー=パシャの反乱
* イタリア王国、セルビアと秘密条約締結
* 北ボルネオ特許会社の北ボルネオ領有(マレーシアのさば週)
1882年
* 1月4日 - 軍人勅諭発布
* 1月26日 - 仏ガンベタ内閣総辞職
* 3月1日 - 時事新報創刊(福澤諭吉)
* 3月3日 - 伊藤博文ヨーロッパ視察へ
* 3月6日 - セルビア王国成立
* 3月19日 - サグラダ・ファミリア建設開始(2026年完成予定)
* 3月31日 - 朝鮮国元山港居留地の日本人5人が朝鮮人暴徒に襲撃されて荷物を奪われ、1人が殺され2人が重傷を負う。
* 4月6日 - 板垣退助自由党党首が遊説中に暴漢に襲われる(岐阜事件)
* 4月6日 - 立憲改進党結党式(大隈重信・河野敏鎌ら)
* 4月25日 - アンリ・リヴィエール率いるフランス軍がハノイを占拠
* 5月6日 - 米国で排華移民法(Chinese Exclusion Act)成立
* 5月20日 三国同盟締結
* 5月22日 - 米朝修好通商条約締結(朝鮮における不平等条約の先駆)
* 6月3日 - 集会条例改正(政党活動の制限強化)
* 6月11日 - 英埃戦争: アレクサンドリアで暴動発生,ヨーロッパ人が五十名殺害される
* 6月27日 - 日本銀行条例制定
* 6月30日 - 米大統領ジェームズ・ガーフィールドを暗殺したチャールズ・J・ギトーが絞首刑に処せられる。
* 7月11日 - 英埃戦争: アレクサンドリア砲撃
* 7月23日 - 壬午事変: 朝鮮の漢城で兵士の暴動により,日本公使館員らが多数殺傷さる
* 8月5日 - 戒厳令制定
* 8月12日 - 徴発令制定
* 8月16日 - 英埃戦争: 英軍がアレクサンドリアに上陸
* 8月23日 - 皇典講究所(後の國學院大學、日本大学)設立
* 8月30日 - 壬午事変: 済物浦条約締結
* 9月13日 - 英埃戦争: 英国がエジプトを占領
* 9月17日 - 1882年の大彗星が太陽表面から46万kmのところを通過し、太陽のすぐ脇でも明るく見える大彗星となった。
* 10月10日 - 日本銀行開業
* 11月13日 - 陸軍大学校条例制定
* 12月1日 - 自由民権運動: 福島事件
* 12月6日 - 地球上からの金星の太陽面通過が起こった。
* 12月16日 - 郵便条例制定
1883年
* 2月 朝鮮で済物浦(後の仁川)開港(日朝修好条規による)
* 3月20日 - 高田事件
* 4月12日 - 陸軍大学校開設
* 4月16日
* 新聞紙条例改正
* ポール・クリューガーが初代トランスバール共和国大統領に選出される
* 文部省が、東大で英語による教授を廃止して日本語を用いる事、ドイツ学術を採用する旨を上申
* 5月20日 - 工業所有権の保護に関するパリ条約締結
* 5月27日 - 露アレクサンドル3世戴冠式
* 6月29日 - 出版条例改正
* 7月7日 - 鹿鳴館落成(開館式11月28日)
* 7月25日 - 岩倉具視国葬(初の国葬)
* 7月28日 - 日本鉄道開業(上野・熊谷間)
* 8月1日 - 護国寺火災、本堂焼失
* 8月3日 - 伊藤博文が憲法調査より帰国
* 8月25日 - 第一次フエ条約(アルマン条約、越南がフランスの保護国に)
* 8月27日 - インドネシアのクラカタウが大噴火(火砕流・津波による死者36,417名の惨事)
* 8月29日 - クラカタウ大噴火による津波を英仏海峡でも観測
* 三池炭鉱・高島炭鉱で暴動
* 10月15日 - 米国最高裁が公民権法(1875年)を違憲と裁定 (Civil Rights Cases)
* 10月20日 - 太平洋戦争:アンコン条約締結(ペルーがチリに降伏)
* 11月28日 - 鹿鳴館開館
* 12月28日 - 徴兵令改正
1884年
* 1月4日 英国でフェビアン協会創立
* 1月18日 - ゴードン将軍がハルツームに向けロンドンを出発
* 1月24日 - 太政官文庫(後の内閣文庫)設立
* 2月18日
* ゴードン将軍がハルツームに到着
* レフ・トルストイ『わが信仰はいづれにありや(в чем моя вера)』が警察により全刷没収さる
* 3月13日 - ハルツーム包囲戦(Siege of Khartoum)開始( - 1885年1月26日)
* 3月26日 - 東京商業学校設置(商法講習所が官立となり改称)
* 4月4日 - 太平洋戦争: ボリビア・チリ間休戦協定締結(バルパライソ条約)
* 5月11日 清仏間で天津協約(Tientsin Accord)締結
* 5月15日 - 群馬事件: 自由党員が群馬で蜂起
* 6月6日 - フランス・ベトナム間で第二次フエ条約(パトノートル条約)締結: 保護国化を確認
* 6月23日 バクレ待伏せ事件(Bac Le ambush): 清仏戦争の直接原因となる
* 7月3日 - ダウ・ジョーンズ社が最初の株価平均を発表
* 7月4日 - 自由の女神像がパリで米国に贈与さる(完成1886年)
* 7月5日
* カメルーン全土がドイツの勢力下に置かれる。
* 米国で修正排華移民法(Chinese Exclusion Act)成立
* 7月12日 - フランスが清にバクレ待伏せ事件の賠償を要求し最後通牒を出す
* 7月31日 清がフランスの賠償要求を拒否
* 8月5日 - 米国ベドロー島で自由の女神像定礎式
* 8月23日 - 清仏戦争: 福州海戦(Battle of Fuzhou)により戦争開始
* 9月23日
* 加波山事件: 自由党員が専政政府打倒をスローガンとして茨城県加波山で蜂起
* ハーマン・ホレリスがタビュレーティングマシンの特許を申請
* 10月1日 - 清仏戦争: 仏軍が基隆を占領
* 10月8日 - 清仏戦争: 淡水の戦い(Battle of Tamsui)
* 10月13日 - 国際子午線会議にてグリニッジ子午線を本初子午線と決定
* 10月23日 - 清仏戦争: フランスが台湾の封鎖を声明
* 10月29日 - 自由党解党式
* 10月31日 - 秩父事件: 埼玉県秩父郡の農民が武装蜂起
* 11月2日 - 安房事件発生。
* 11月4日 - 米大統領選挙でグロバー・クリーブランドが僅差で勝利。
* 11月9日 - 秩父事件: 軍隊により鎮圧。
* 11月6日 - 英国がニューギニア島南東部の領有を宣言、
* 11月15日 - ベルリン会議開催。( - 1885年2月26日)
* 12月4日
* 飯田事件: 自由党員の名古屋鎮台襲撃計画が発覚
* 朝鮮で甲申政変
* 12月17日 - 名古屋事件: 愛知自由党員の政府転覆計画が発覚
1885年
* 1月9日 - 日本(井上馨)と朝鮮(金弘集)の間で漢城条約締結
* 1月27日 - ハワイ王国への官約移民第一号となる944名が渡航(以後9年間で約29,000人が移民)
* 2月9日 - 日本人移民がハワイ王国へ到着(ハワイにおける日本人移民)
* 2月17日 - ビスマルクがドイツ領東アフリカ統治をカール・ペータースに認可
* 2月26日 - ベルリン会議閉会: ベルギーがコンゴで,英国がナイジェリアで主権を確立
* 3月4日 - グロバー・クリーブランドが第22代米国大統領に就任(1期目)
* 3月16日 - 脱亜論が新聞『時事新報』に社説として掲載。
* 3月18日 - ヤコブ・メッケルが陸軍大学校教官に着任
* 3月19日 - カナダ・サスカチュワン州でルイ・リエルが再び連邦政府に対する反乱を開始。
* 3月30日 - 清仏戦争: 仏フェリー政府瓦解
* 3月31日 - 英国がベチュアナランドを保護国化
* 4月4日 - 清仏戦争: 予備平和条約調印
* 4月15日 - 英海軍が朝鮮巨文島を占領(巨文島事件)
* 4月18日 - 日本(伊藤博文)と清国(李鴻章)間で天津条約締結
* 5月9日 - 日本銀行券発行開始(拾圓券)
* 6月9日 - 清仏戦争: 天津条約調印
* 6月17日 自由の女神像がニューヨーク港に到着
* 6月23日 - 英国でソールズベリー内閣成立(1期目)
* 6月24日 - サミュエル・ファーガソン(Samuel David Ferguson)が黒人として初めて米国聖公会主教となる
* 9月8日 - 日本銀行壹圓券・百圓券発行
* 9月10日 - 英吉利法律学校(後の中央大学)開校
* 9月29日 東京法学校が東京大学へ併合
* 10月1日 東京瓦斯創立(東京府瓦斯局の払い下げ)
* 11月23日 - 大阪事件
* 12月17日 - フランスがマダガスカルを保護国化
* 12月22日 太政官制度廃止・内閣制度創設、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任(第1次伊藤内閣)
* 12月28日 - 第1回インド国民会議開催( - 12月31日)
1886年
* 1月1日 - 英緬戦争: ビルマが英領インドに併合
* 1月26日 - 北海道庁設置(根室県・札幌県・函館県廃止)
* 1月28日
* 陸軍師団番号制定: 各6鎮台に師団番号を付与
* 英国でソールズベリー内閣(1期目)辞職
* 1月29日 - カール・ベンツが世界初のガソリン自動車の特許を取得(ベンツ・パテント・モーターカー(3輪))
* 2月1日 - 英国でグラッドストン内閣(3期目)成立
* 3月2日 - 帝国大学令公布: 東京大学を帝國大學に改称改組(法・医・文・理・工の5分科大学)
* 3月26日 米国シアトルで反シナ暴動
* 4月6日 - 英独間で西太平洋の勢力範囲を協定(ベルリン宣言)
* 4月8日 - 英グラッドストン首相がアイルランド統治法案を提出(6月8日否決)
* 5月1日 第1回条約改正会議開催
* 6月2日 - 米クリーブランド大統領が米大統領として初めて在職中に結婚
* 6月3日 - 元自由党員による箱根離宮落成式襲撃計画が発覚(静岡事件)
* 6月8日 - 英国議会がアイルランド統治法を否決
* 6月10日 - ニュージーランド北島タラウェラ山が大噴火(死者120名)
* 6月12日 - バイエルン国王ルートヴィヒ2世が拘束・廃位さる(翌日死亡)
* 7月13日 - 本初子午線経度計算方及標準時ノ件発布(1888年1月1日より日本標準時間を適用)
* 7月20日 - 英国でグラッドストン内閣辞職
* 7月24日 - 英国のビルマにおける主権を清が追認(ビルマ条約)
* 7月25日 - 英国でソールズベリー内閣(2期目)成立
* 8月1日 - 英国がケルマディック諸島を併合
* 8月4日 - コロンビア共和国成立
* 8月13日 長崎事件: 上陸した清国水兵数名が遊郭で酩酊乱暴し警察に逮捕さる
* 8月15日 - 長崎事件: 数百名の清国水兵と警察官が乱闘し死傷者がでる
* 9月4日 - インディアン戦争: ジェロニモが降伏
* 10月6日 - スペインがキューバで奴隷制を廃止
* 10月24日 ノルマントン号事件
* 10月28日 - 自由の女神像完成
* 10月30日 - アフリカ分割: 英領東アフリカと独領東アフリカの境界を協定
* 11月4日
* 小笠原島庁設置
* 関西法律学校(後の関西大学)創立
1887年
* 1月20日 -米上院が海軍の真珠湾使用を承認(ハワイ王国からの獲得は11月)
* 2月23日 - 仏・伊の地中海沿岸で地震(M6.0,死者2000名)
* 3月23日 - 所得税法公布
* 4月30日 - ヘルマン・ロエスレル「日本帝国憲法草案」を起草
* 5月14日 - 取引所条例公布
* 6月18日 独露再保障条約締結
* 6月21日 - 大英帝国でヴィクトリア女王在位50周年式典
* 9月17日 - 井上馨外相が辞任
* 9月28日 - 黄河流域で洪水被害、死者90万人以上
* 11月29日 - ロンドンで血の日曜日事件(Bloody Sunday)
* 11月29日 - 米国が真珠湾をハワイ王国より獲得
* 12月1日 - マカオの統治権をポルトガルが清より獲得
* 12月2日 - 仏グレヴィ大統領辞任
* 12月25日 - 保安条例公布(即日実行)
* 12月28日 - 新聞紙条例・版権条例改正
日付不詳
* アメリカ、自治植民地会議が始まる
* フランス領インドシナ連邦成立
1888年
* 3月9日 - 独帝ヴィルヘルム1世死去
* 3月11日 - 米国東海岸で大寒波(死者400名)(1888年の大ブリザード)
* 3月13日 - デビアス鉱山会社とキンバリー・セントラル鉱山会社が合併し、世界のダイヤモンドを支配するデビアス合同鉱山会社となる。
* 4月25日 - 市制・町村制公布(1889年4月施行)
* 4月30日
* 黑田清隆が第二代内閣総理大臣に就任
* 枢密院設置(初代議長伊藤博文)
* 5月13日 - ブラジルで摂政イザベル皇女が奴隷制廃止法案に署名 (米大陸の奴隷制終焉)
* 6月5日 - ラプラタ川流域で中地震(Rio de la Plata Earthquake 1888)
* 6月15日 - 独帝フリードリヒ3世死去,ヴィルヘルム2世即位,年に二回皇帝が代わったことから「三皇帝年」と言われる
* 6月23日 - フレデリック・ダグラスが黒人として初めて米国大統領候補に指名される
* 7月10日 - 東京朝日新聞創刊(めさまし新聞改題)
* 7月15日 - 磐梯山が千年ぶりに噴火し山体崩壊(発生した泥流などにより461名が犠牲)
* 8月31日 - イギリスで「切り裂きジャック」による最初の殺人事件が発生。
* 9月3日 - イギリスのヴィクトリア女王が東アフリカ会社の勅許をウィリアム・マッキノン(Sir William Mackinnon)に与える
* 9月30日 - 切り裂きジャックによる殺人が目撃される
* 10月29日 - スエズ運河の自由航行に関する条約締結
* 11月2日 - 咸宜帝が仏官憲に引渡される
* 11月6日 - 米国大統領選挙でベンジャミン・ハリソンが勝利
* 11月14日 - パスツール研究所開所(設立1887年)
* 11月20日 - 大阪毎日新聞創刊(大阪日報改題)
* 11月26日 - 海軍大学校開校(築地)
* 11月30日 - 日墨修好通商条約締結
* 12月3日 - 香川県が愛媛県より独立
* 12月11日 - 東京美術学校が上野へ移転
日付不詳
* 英国がサラワク王国、ブルネイ、北ボルネオを保護国化
1889年
* 1月10日 - 象牙海岸がフランスの保護国となる。
* 1月22日 - 徴兵令改正(戸主の徴兵猶予を廃止)
* 1月23日 - 三池炭鉱が三井組に払下げられる。
* 1月30日 - オーストリア=ハンガリー帝国でルドルフ皇太子が謎の情死(マイヤーリング事件)。
* 2月11日
* 大日本帝国憲法・旧皇室典範・ 衆議院議員選挙法公布。
* 森有礼文相が、大日本帝国憲法発布式典への途上、西野文太郎によって刺殺される。
* 2月12日 - 黑田首相が超然主義演説を行う。
* 2月20日 - 由良要塞起工。
* 3月4日 米国でベンジャミン・ハリソンが第23代大統領に就任。
* 3月23日 米ハリソン大統領がオクラホマ未割当地への白人入植を認可。
* 3月31日 - エッフェル塔落成式(開場5月6日)。
* 4月1日 市制・町村制施行、弘前市、横浜市、久留米市など31都市が選ばれる。
* 4月22日 - 米オクラホマで白人入植解禁(ランドラッシュ)。
* 5月1日 - 東京15区で市制を施行し、東京市が誕生。
* 5月6日 - パリ万国博覧会開催( - 10月31日)。
* 5月31日 - 米国ペンシルベニア州ジョンズタウンで大洪水(死者2209名、ジョンズタウンの大洪水(英語版)参照)。
* 6月3日 - カナダ太平洋鉄道が太平洋・大西洋間で全通。
* 6月6日 - 米国シアトルで大火(25街区壊滅、シアトルの大火(英語版)参照)。
* 7月8日 - ウォールストリート・ジャーナル創刊。
* 7月14日 - 第二インターナショナル結成(パリ)。
* 十津川大水害など、紀伊半島南部で大雨被害。
* 9月9日 - 和仏法律学校(東京仏学校と東京法学校が合併)。
* 10月4日 - 日本法律学校設立。
* 10月18日 - 大隈重信外相が爆裂弾による襲撃を受け右脚を失う。
* 10月25日 - 黒田内閣総辞職(三條暫定内閣)。
* 11月2日 - 米国でノースダコタが39番目の、サウスダコタが40番目の州となる。
* 11月3日 - 嘉仁親王が立太子礼を行う。
* 11月8日 - 米国でモンタナが41番目の州となる。
* 11月11日 - 米国でワシントンが42番目の州となる。
* 12月24日 - 第1次山縣内閣成立。
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