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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(9)

鈴木商店破綻の背景2

帝人広島工場設立と台湾銀行、鈴木商店の第一次整理のところまで見た。いくら債務が積み重なっていたとは言え、なぜこのタイミング、震災が起きるよりも前に、第一次整理という荒技をする必要があったのだろうか。

第一次グローバリズムの行き詰まり

それにはやはり前回見たような古典的金本位制の、第一次世界大戦勃発による崩壊、という第一次グローバリズムの死活に関わるような状況が発生していたことが大きな要因だと言えそうだ。この第一次グローバリズムは、世界中が古典的金本位制の導入によって一応一つの比較可能な経済系として統合がなされたことによって成立したのだと言える。それが、各国が金兌換から離脱することで、共通の交換尺度がなくなり、さらには各国経済は以前のような金貨銀貨ではなく紙切れで動くようになってしまったので、その重さを比べて交易する、ということもできなくなってしまっていた。つまり、国境を跨いで交易を行う条件というのが完全に失われてしまい、紙切れを信じる範囲でしか交易が成り立たなくなってしまった、ということを意味するのだ。

アメリカの修正金本位制

アメリカはいち早く金本位制に復帰しており、そこへの輸出を兌換紙幣で受け取れれば金との交換が成り立つが、当時のアメリカの兌換の仕組みは、連銀が保証する債権との交換で、とりわけ財務省債権については金での償還が認められていたので、そこで兌換が機能する、というものだったので、直接の兌換紙幣とは言い難いものだった。

国際決済の機能停止

その上で、当時国際的な為替手形決済を一括して行っていた英国ロンドンのシティが戦争によって機能停止し、手形の輸送が途絶してしまったという。それによって貿易決済が全く成り立たなくなっており、この時期にどうやって貿易が成立していたのかは今のところよくわからない。なお、ロンドンへの手形輸送はシベリア鉄道を使っていたということで、そんなこともシベリア出兵で大軍を送り込み、撤退に時間がかかった要因なのかもしれない。この辺りの情報はWikipedia頼りであり、他の情報を見ると、シティが機能停止したという話は出ていないので、決済自体は行われていたように感じる。ただし、シベリア経由で送っていたというのが本当ならば、その経路はロシア革命によって難しくなっていたのだろう。しかしながら、そうなった段階で代替の経路を探らないという手はないわけで、決済ができなくなるような状況はあまり考えにくいか。英国が金本位を離脱した時期は現在特定できなかったが、いずれにしてもそれによって多通貨間決済が機能しなくなった可能性はありそう。

日米通貨関係

それでもアメリカは1917年まで金本位を維持していたので、それで一応国際貿易の仕組みは機能していのだろう。ただし、アメリカの金本位の仕組みからして、日本からの輸出では金ではなく外貨が積み上がることになり、その需給によって為替相場の変動が起こるようになったのかもしれない。そして1917年にアメリカと日本が相次いで金本位から離脱すると、日本はどうもドルにペグして管理通貨制度を22年くらいまで運用していたようだ。

国庫金預金制度

そんなこともあって、政府・日銀はとりあえず金融制度をこの新状況に合わせるのに必死だった。まずは、日銀での国庫金の扱いを、金庫から預金に切り替えた。金庫であれば政府はノーリスクで預けておけるが、そのために日銀は額面そのまま保管せざるを得ず、国庫金が積み上がると市中への紙幣の供給が細り、金融引き締め効果を持つということがあった。それを預金に切り替えることで、日銀は数字の管理だけで実際の資金は市中に供給することができるようになり、国庫金を不胎化して扱えるようになった。しかし、これがドルペグを不可能にし、ドルとの間で変動相場となっていったようだ。

多国間変動相場のもたらす混乱

それでもドルとの間では比較的レートは安定していたが、決済が行われていたと考えられる英国のポンドとの間では円安が急速に進展し、そのために輸出代金の円建てでの手取りが減った可能性がある。そんなこともあって、第一次整理が必要になったのかもしれない。

変動相場の導入による混乱

鈴木商店は特に輸出比率が高かったのかもしれないが、他の銀行や商社も何らかの形で輸出債権を抱えていた可能性があり、変動相場という新状況に対応しきれなかったということもあるのかもしれない。いずれにしても、加藤友三郎首相が突然亡くなった直後の23年9月には関東大震災が発生し、首都圏の金融は完全に麻痺している。日銀も火事に襲われたようで、貴重な資料を消失したという。9月17日にはモラトリアムが出されたが、これは被災者救助というよりも、銀行の取り付けを防ぐためのようなものであり、これによってさらに金融の硬直化が進んだのだと考えられそう。

震災手形

このモラトリアムに関わって日銀理事の深井英五が

「支払猶予令と共に、政府が日本銀行の損失を補償する方法を立つるにあらざれば、善後処置を十分にし得ないだらう進言した」という。なぜならば、「預金の制限支払に要する資金の程度ならば、日本銀行独自の力を以て援助するも差支えないが、支払猶予令の期限をなだらかに経過して金融の疎通を回復するには、猶予令の適用を受くる債務即ち震災手形に融通性を与ふる為め日本銀行に於て之を再割引しなければなるまい。それは随分多額に上るであらうし、既に損害を蒙つて居るものに融通を与へるのだから、窮極日本銀行の損失に帰するものもあるべきことを覚悟しなければならぬ。又さやうの手形を割引することが果たして法規上妥当なるやとの疑義もある。」

日本銀行百年史第五章

と述べたという。ここで震災手形という言葉が出てくる。これをみると、猶予令は手形発行者よりもむしろ銀行の営業再開のためになされたものであり、それを震災手形が主犯であるかのように表現し、かつ国庫に補償を求めるというのは、国庫金を預金に切り替えたことでその問題が発生したということについて、政府に責任転嫁をしようという意図があったのではないかと疑われる。その時には大蔵大臣の井上準之助が日銀プロパー、そして日銀総裁の市来乙彦が大蔵省出身という捩れが生じていた。なお、モラトリアムが出たのにも関わらず、

開店後の預金引き出しは当初の予想に反してわりあいに少なく、かえって預金する者が多く、情勢は非常に平穏であった。
9月央には震災に伴う「第一次の金融危機は既に之を脱し得た」といわれた。

同上

という。震災から二週間足らずで初期の金融危機は止まっていたというのだ。この辺りは関東大震災の実態を見極めるのには重要な情報になりそうだが、金融に絞ったここではこれ以上は突っ込まない。

異例の震災対応

とにかく、モラトリアムは9月末で撤廃されたが、震災手形の再割引は定められた。市中の金融が安定していたのに、震災手形の再割引をするというのは、これまた銀行救済以外の何者でもない。なお、ここでいう震災手形は、震災以前に銀行が割引したものであり、基本的には震災とは関係がないもので、単なる不良債権である。さらには不動産担保の貸付に日銀が関与することにもなった。日銀法で禁止されている不動産担保貸し付けを、勧銀を経由した迂回融資で実現してしまおうというものだ。これもまた関東大震災の性質を特徴づける重要な決定であろう。

国策失敗のツケ回し

なお、日銀からの融通額では台湾銀行が群を抜いて多額であるが、これはもしかしたら中国段祺瑞政権向けの西原借款が、第一次奉直戦争の結果を受けて焦げつきリスクが高まったということに関わっているのかもしれない。つまり、日銀融通自体は鈴木商店の手形とは関係がなく、西原借款の穴埋めに使われ、それとは別に12月以降に手形の再割引の残高が増えているということで、そこで借り換えが起きたりしているのかもしれない。いずれにしても、『日本銀行百年史』には、確かに鈴木商店の震災手形残高が大きいという表が出ているが、それは時期も分からず、残高がスポットなのかどうかも分からないもので、他の資料と照らし合わせるとどうも累計のようにも見受けられ、そうなると借り換えが多ければ残高がどんどん積み上がるというような数字のマジックが使われているようにも感じる。つまり、国策での大陸融資という政策ミスを隠すためにも、鈴木商店を人身御供にする必要があったのかもしれない。

昭和金融恐慌

こうして結局昭和2(1927)年の昭和金融恐慌となる。ここまでの背景を見ると、この恐慌も、特にその始まり方の人為性を見ると、純経済的というよりも、かなり政治的、しかも国際政治が絡んだもののように感じられる。その要素を全て追えるとは思えないが、拾えるものだけでも拾ってみたい。

大陸情勢

まず、時期の近い物から見てみると、その時期は中国でちょうど第一次国共合作が崩壊するタイミングにあたり、国民党左派と共産党が作った武漢政府に対して蒋介石が南京政府をうちたている。これも非常に難しい話で、まず武漢政府の代表だった汪兆銘はその頃フランスに外遊しており、現場にはいなかった。そして国民党右派の求めた中にはソ連から派遣されたボロディンの解任というものが含まれており、ソ連の指導のもとでの国共合作というあり方への反発があったように見受けられる。そして蒋介石は米英との関係が深く、にも関わらず南京入城後に日米英など外国人に対して危害を加える南京事件を引き起こしている。これは、昭和金融恐慌が始まって一週間後のことであり、大陸への融資焦付きが大金融問題となっている日本を挑発して大陸に引き込もうとした動きなのかもしれない。

日本の国内事情

そこで日本サイドに目を移してみると、まずその前年末に大正天皇が薨去されており、昭和天皇が即位していた。その前年には加藤高明内閣のもとで普通選挙法が成立しており、次の選挙からは納税額に関わらず選挙権があることになり、有権者が一気に4倍になっていた。それを受けて政治は政局がらみになりがちとなり、朴烈事件、松島遊郭疑獄や陸軍機密費横領問題が起きて、野党が若槻内閣弾劾上奏案を提出したため予算成立すらも怪しくなり、若槻禮次郎首相は「深甚なる考慮」という文言を入れた書類に署名してこれを収めようとした。普通選挙法が成立したことを考えると、これは解散を行い、選挙で民意を問うという意味であったのではないかと思われるが、予算成立直後から総辞職圧力が強まり、嘘つき禮次郎呼ばわりされるという状況になっていた。さて、この若槻禮次郎は大蔵省出身で、第三次桂内閣と第二次大隈内閣で大蔵大臣を務めている。その内閣は、どちらも二個師団増設問題がテーマとなっており、結局その増設が決まった時の大蔵大臣だったということで、なんであれ陸軍との間には関わりがあったことになる。そして若槻内閣の後は結局陸軍出身の田中義一内閣となるわけで、その田中義一が政界入りする時の持参金問題が陸軍機密費横領問題で、要するに陸軍が徹底的に揺さぶりをかけていたことになる。

共産主義の動き、そして準備された金融恐慌?

一方、大震災前にはソ連からヨッフェという人物がやってきて、来日前に孫文にあったことも含め、日本国内でも共産主義運動に火をつけようとしていた感じを受ける。それに先立つ普通選挙法の成立に伴って治安維持法も導入されており、国内の騒乱が権力強化に結びつくメカニズムもできていた。そんな状況で、足元からも、陸軍経由でも、さらには大陸方向からも、日本を騒乱に引き込もうという動きが起きており、そんな中での東京渡辺銀行についての片岡蔵相の失言となる。この東京渡辺銀行のオーナーは10代目だと称しているが、受ける印象ではどうも一代で作り上げた、どころか作り上げたほどの実態があるのかも分からない、というのが東京渡辺銀行なのでは、という感じを持つ。つまり、これは全くの主観的な感覚で、なんの証拠もないのだが、どこかの段階で震災手形を爆発させるために準備された銀行であるという可能性があるのではないか、と感じるのだ。そうでなければ大蔵大臣が議会で失言をしてそれがそのまま金融恐慌につながる、などというあまりにできすぎた話が通るとは思えないからだ。

狙われた鈴木商店

そして次の田中義一内閣では、鈴木喜三郎という川島という家から養子に入った人物が内務大臣となり、初めての普通選挙で選挙干渉を行ったとされる。そんなことも含めて、鈴木商店自体があちらこちらから煽られていた感じは否めず、それを新規取引停止で台湾銀行と距離を置くことで収めた、というのは、十分に上手く着陸させたと言えるのではないか、と個人的には感じる。要するに、昭和金融恐慌は、金融恐慌というよりも、政治恐慌であった可能性が高いのでは、というのが今のところの私の結論となる。ただ、この問題は非常に奥が深いので、もっと色々調べれば、また何か見方も変わってくることがあるかもしれない。とりあえず今の所はこの辺りにしておきたい。

参考

戦間期日本の為替レート変動と輸出(日本銀行金融研究所 / 金融研究 / 2002.6)畑瀬真理子
日本銀行百年史第五章

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Emiko Romanov
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