私が小論文を書くことに興味を持ったとき
以前、ある先生に師事し、小論文を書いたことがありました。
色々、失敗や達成したこともありましたが、そのことは楽しく、得ることがかなり多かったです。
課題に沿って論文を作り続けるうち、フィーリングに頼りがちな私は、途中で感覚的な表現にはしることが多々ありました。
私は、ぼやけた文の焦点を修正し、そして、具体例を出すことで、わかり易くすることも覚えていきました。
先生の教室の方式による、文章の組み立て方、文章の進め方、そして、一般的な文章作法(漢字をひらく、という方法があります)などを教わりました。
一番、最近のときには、先生とのやり取りが、ツーカーに近かったです。
指導に来るメールと質問のメールが、卓球のラリーのように、来るもののコースや方向を予見し、レシーブするような、そんな目に見えていない部分を読みながらの作成が、痛快……と、いうのだと思います。とても楽しい、と思いました。
元々の動機は、ふたつほどありました。
ひとつは、論理的な文章をつくりあげる方法を身につけるため。どんな〝競技〟でも(ここでは〝競技〟という言葉を使わせていただきます。)基礎や、フィギュアスケートでいうコンパルソリーの部分、規定に沿った動きなどを反復して行うことは、すばらしい結果を生み出すために、とても重要なことだと考えていたからです。
もうひとつは、先生に少なからぬ御縁や御恩を感じていたから。先生のお考えが私に与えた影響は、かなりありました。
最初は、「小論文」というものの前提もわからず、迷走しました。
かならず、なにかの立場に立って、論議を展開しなければならないところを、どちらの立場もわかる、というような中間の立場をとってしまい、お叱りを受けたり、ご指導を受けたりしていました。
私の、まったくの無知から出た行動だったのですが、あわてて修正、提出し、途中を見ていたnote読者の方も「この子は、なんで自分の意見をコロコロ変えるのだろう」と、もしかしたら心配されたかもしれません。
しかし、私の主張で、「小論文は〝競技〟だ」と、思っていたので、たとえば、弁護士でしたら、主張をするとき、弁護する人の立場に立って、代わりの発言をしますよね。私にとっては〝競技〟だ、と思えたので、そのとき選んだ立場で、論議を展開していました。
最近のころの課題になると、やっと先生に「よくできましたね」と、言われるように。
もともとは、私は、創作は「相手に伝わればいい」、と散文的に、感覚で書き散らしていましたが、noteでの初期のころは「主語がない」、「途中でわけが分からなくなっている」など、ご指摘が多数あり、それらの文章の欠点は、慣れていくうちに消えていく、と楽観していました。
しかし、自宅ちかくの新幹線の騒音のもと、書き続けたり、見直さない生活のなかでは、まったく上達していなく。引っ越しをして、静かな環境に移った機会と、先生の教室での募集が重なり、師事することに決めました。
まだまだ、続けたい、と思っていました。しかし、私が、シナリオコンクールの応募のため、すこしお休みをいただいたあとに問い合わせをしたところ、先生は、現在、お休みを取られているようです。
あれから、私の文章は、上達したのでしょうか。フィギュアスケートの練習よろしく、コンパルソリーのような小論文もどきと、フリーのような書きなぐりを続けています。そうすると、表現に幅や深みができ、佳いものが出来上がるような気がするのです。
トップ画像は、メイプル楓さんの
「みんなのフォトギャラリー」より、
いつもお世話になっております☺️