憎まれっ子世に憚る
この間、ナースステーションで、ふと、亡くなった方の話になった。
出てくる名前は、癖の強い人物ばかり。
生きている時には、本当に苦労させられ、罵声をあびせられ、物を投げつけられ、細かい要求をされ、と手がかかった人がほとんど。
たまに、ただ、そこにいるだけで愛される人(可愛い人)もいたけれど、それは、結構まれ。
そもそも、無条件に愛される人は、手がかからないからとか、性別とか、年齢とか、話が丁寧とか、何かの理由があって愛されるわけではなく、その存在だけで愛される。
だから、普通の人が言いたいことを我慢したり、ニコニコしているからといって、無条件に愛される存在にはなれない。
つまり、無条件に愛される存在はまれだから、必然的に少人数になる。
そうすると、思い出された名前の多さは、無条件に愛される人>普通の人>憎たらしいと思われる人となりそうなものだが、実際は、憎たらしいと思われる人>無条件に愛される人>普通の人である。
憎まれっ子の勝利である。
そう考えると、憎まれっ子世に憚るは正当であると納得する。
良いか悪いかはともかく、普通にしていて全く思い出してもらえない人よりも、憎たらしいとは思われていても思い出してもらえる人なら、憎たらしいと思われたほうが得ではないだろうか。
つまり、自分のわがままを押し通して人生を送った人のほうが得だと思う。
まあ、法に触れることをするのは問題だと思うが、そうでなければ、人から憎たらしいと思われるのもあながち悪いことではないように思う。
無条件に可愛いと思ってもらえる存在になるのは、方法論がわからないから難しいが、憎まれっ子になるのは自分のわがままを押し通せばいいだけだから簡単である。
簡単、といっても、普通の人が憎まれっ子になるのは、やはり敷居が高いかもしれない。
自分はなにを言われても、わがままを突き通す、という精神力が必要だからである。
普通はやっぱり人から嫌われたり、憎まれたりしたくないからね。
でも、それを推しても、憎まれっ子になるメリットは多いように思う。
勇気を出して、憎まれっ子になってみてはどうだろうか。