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息子の身体障碍を通して気づいた本当の幸せ

先日、私は、『自分の子育て期間が、とても甘美で素晴らしい体験だったことに気づいたお話』を書きました。

この子育ての体験中、私たち親子は、他の障碍児のご家族とたくさん出会ってきました。

そのとき、シングルマザーで障碍児を育てているご家庭が割と多かったことに、ある時ふと気づきました。


もちろん、ご夫婦で育てているご家庭もあるし、三世代同居の大家族もありましたし、爺ちゃん婆ちゃんも含めて家族総出で助け合い、障害を持つ子供を大事に育てている家庭も多々ありました。

でも、それと同じくらいの割合で、シングルマザー家庭もあったのです。

最初は、「シングルのまま子供さんを生んで、それが、たまたま障碍児だったというパターンなのかな?」と思っていたのですが、実はそうではなく、「生まれた子が障碍児だったから、それが原因で否応なしにシングルになってしまった…。」そんなケースが多いことを後々知りました。


ある時、母子家庭になったいきさつを、あるシンママから聞いたことがありました。

彼女曰く、「子供に障害があると分かったら、夫がショックを受けてそのまま家を出て行き、結局、別れてしまった」…と。

「えっ?旦那さん、逃げたの?」と私はとても驚きました。自分が産ませた子供なのに、障碍があるからと言って落ち込んで出て行くって、どういうこのなの?…と。


その他でも、聞こえてくる話によると

・「こんな障害を持った子供は、俺の子ではない!」と怒って夫が暴力をふるい始め、それで別れた。

・「うちの家系に障害を持つ者はない」と夫の親に責められて、母子ともに居場所を失った。

…云々。こんなことが今もあるのか…と、私はとてもビックリしました。

また、その後の話で、「別れた旦那さんは早々に再婚して、新しい家庭を築いている」…という後日談も、結構たくさん聞きました。

別れた旦那さんにとっては、『生まれた子供が障碍児だったのが気に入らない、サクッと妻子を切り離して人生リセットしよう!さあ次の結婚をしよう!』…というノリなのかもしれませんが、女性の立場からすると、自分が産んだ子と一緒に、ポンと路頭に放り出されるわけです。

子の父親であるパートナーとの縁を絶ち切り、障碍を持つ子を抱えながら、自分の生活も立て直さなきゃいけない。「これはたまったもんじゃない、本当に酷い話だ…」と心が痛みました。


これは、私が子育てをしていた平成時代初期の頃の話なので、時代は変わって今は事情も異なっているかもしれませんが、以前は、昭和時代の価値観がまかり通っていて、障碍を隠したり忌み嫌う人がとても多かったのです。


障碍=不幸

…というイメージが広く定着していて、障害を持っていると「必ず不幸になる」と、皆がそう信じていた時代。

障碍があると「これで自分の未来の可能性は閉ざされた」「輝かしい人生はもう無い」…そんな価値観に皆が縛られていました。

私も、勤務校で、先輩の先生から「息子さん、障碍児だなんて、本当に可哀想…。きっと、息子さん、将来大人になったとき、「どうして俺は健常者じゃないんだ!」と、母親のあなたを恨んで怒りをぶつけてくると思うよ。大変だね…。頑張ってね。」と言われたことがあります。

私は、「はぁ~?」と呆れて、開いた口がふさがらなかったのですが、この先生、障碍児学級(今は特別支援学級と言いますが、当時は特殊学級と呼んでいた)の担任の経験もある御仁なんですよね…汗。

そんな人でさえ、「障害=不幸で可哀想」という思考でガチガチに頭が固まっていたのです。

確かに、あの頃、世の中を見渡しても、障害を抱えている人&その家族は、「ザ・不幸」という雰囲気で、暗いし、お洒落じゃないし、日陰っぽい感じでした

これが当たり前。これが障碍を持つ人たちのスタンダード。

障碍にもいろいろな種類があり、100人いればその状態は100通りなのに、みんなひとくくりにされて「可哀想」「何かしたくても障害者では無理」とレッテルが貼られます。

ですので、「いつか私も、自分の子供から「どうしてこんな体に産んだんだ!」と責められて、暗くて不幸な人間になるのかな…。」

…と、そんなことを考えたりもしました。

でも、私自身は、「確かに大変だけど、そんな周りの人たちが期待?するほど不幸じゃないし、楽しいことも多いし、本当はどうなんだろう?

…と、不思議さも感じていました。

今、思い起こせば、当時は「障碍児を抱えている家族は不幸になるんだぞー」という期待感いっぱいで周囲から監視されている感じが結構あって(今でいう「感動ポルノ」というヤツでしょうね…汗)、そんな周りの期待に応えて「どん底の可愛そうな家族にならなきゃいけない」みたいな、変なプレッシャーもあったんです。


でも、なんか違う。

どうして周りは勝手に「不幸」だと決めつけるんだろう?

周りが何を言おうと、私たち親子が「楽しく幸せ」なら、それでいいんじゃないの…?

そうだ、私たちは違う道を辿って行こう。

世間が押し付けてくる「障碍児を持つ家族は、孤独で不幸で可哀想な人たち」という固定観念は本当なのかどうか…を、私たち親子で検証してみよう。試してみよう。

…と、そう思い立ちました。

腹を括ったのです。そして、覚悟を決めました。

その後、当時まだ乳幼児だった息子を抱えて、夫婦で「これから何を目指していこうか?」とよく話し合いました。


そんなとき、たまたま入った本屋で平積みにされ、ふと目に留まった本が、乙武さんの『五体不満足』でした。当時、まだ大学生だった乙武さん。

電動車いすに乗っている爽やかな青年の写真に心が奪われて、私はこの本を買いました。

この本は、当時としては画期的な内容で大評判でした。皆が、新しい障碍者の出現だ!と感動して受け入れていましたが、私は、この本の中に「私たちが目指す目標」を見つけました。というか、私の「こうしたい」が一杯詰まった内容でした。

「なんだ~!もう実践してやっている人がいたんだ…」と。

そうそう、この乙武クンのように、うちの子も「障碍があること」をマイナスポイントにしないで、ポジティブに受け入れて明るく生きてほしい…と思ったのです。

罪悪感とか、後ろめたさとか、不幸とか、可哀想とか、自己憐憫とか、自己否定とか、そういうネガティブなものを一切持たず、普通に明るく生きてほしいな…と。次々と出てくる「困ったこと」に対しては、きっちり現実的に対処していきながら、障碍の有無に関係なく、自分らしく人生を切り開いてほしいな…と、そう思いました。

そのためには、親である私自身が、一切、「罪悪感」も「後悔の念」も「不幸観」も「自己憐憫」も「後ろめたさ」も「申し訳なさ」も持たない…ということです。

つまり、私の心の中から「自分を責める」というカードを排除した…ということ。

そうしたネガティブな意識は一切持たず、子供の未来の可能性を切り開くことに自分のエネルギーを使おう…。常に前向きにポジティブな気持ちで生きていこう…と思いました。そういう覚悟を持ったのです。


これって、とても「当たり前」のことなのに、障碍児の育児になると、とたんに感情的な部分が前面に押し出されて、きちんと理性をもって適切に対処することが難しくなるんですよね…。親が意識を変えたとしても、周りの人たちの中に感情的な反応をする人がいると、その人たちが、ネガティブな方向へと勝手に巻き込んでくるのです。


どうも、健常者しか知らない人たちで、自己肯定感の低い人たちは、障碍児を持つ親に対して、罪悪感や後悔の念を抱かせたいみたいなんです。そして、私たち親(特に母親に対して)、自分を責めたり、ネガティブな感情に縛られたり、経済的に困窮したりして、どんどん苦しんでいくことを期待している?…そんな感じなのです。


だから、先述の先輩先生のように、無意識のうちに、障碍児の親に罪悪感を抱かせるようなことを言ってみたり、陰で「可哀想に」と不幸の噂話をしたり…等。障碍児とその親を蔑むことでマウントして、自分の存在価値を確認して安心したりホッとするのでしょう。


でも、私も夫も息子も、全然「不幸そう」でもなく、「可哀想」でもなく、「むしろ楽しそう」だから、その人たちも自分たちの価値観が揺るぎだすのか?…だんだん不安になっていくようで、「絶対に不幸になるぞ」と脅してきたり、陰であることないこと悪口を言いふらしたり、自分の勝手な妄想をうちの息子に刷り込もうとしたり…。なんだか暴走してくるんです(汗)。

私たちの周りの人々の大半が、私たちを心から受け入れてくれて、親身になって応援してくださる善き人ばかりでしたが、一部で、こうした面倒臭い人たちも(少しだけ)いらっしゃいました。

こうした人たちが吐き出すネガティブな毒牙に、息子ががぶりと噛まれて心が傷つかないよう、夫と私で絶えず息子をガードし守ってきました。

特に、子供が小学生までは、波動が低い大人たちが吐き出すどす黒いネガティブな感情(嫉妬・怒り・不満など)に子供が巻き込まれないよう、私たちが盾になり、城壁になって守ってきました。

障碍があると目立つので、大人たちの妬みや怒りのターゲットにもなりやすいからです。

私たちがそういう人たちの感情に触れても、あえて深く関わらず、スルーして受け流してきました。

聞き流しながら、「敵を作るのではなく、味方を増やす」そんな気持ちで日々暮らしてきました。

今は分からなくても、そのうち理解してくれるだろう。今生では無理でも、来世か来来世でわかるときが来るだろう…。

だからあえて関わらず放置する…。そんなスタンスでいました。

これが結果的に、とても良かったです。

敵を作って権利を主張するより、味方になってくれる人を増やして息子のファンを獲得する…。このお蔭で、要らぬ争いでエネルギーを消耗することもなかったし、どんどん前向きにポジティブに活動していけたので、とても良かったです。

こんな感じで、子育てを通して、世の中を知り、社会と繋がり、多くのことを体験してきました。

この時、しみじみ感じたのは、障碍の有無は、その人の本性を炙り出す「鏡」みたいなものだなぁ~ということです。

息子の障碍を知ったとき、相手はどんな反応をしてくるのか?←ここ、意外と本性がむき出しになるです。

一見、とても親切で「善人」っぽく見えていた人が、まだ幼い息子に対して急に「怒り」をぶつけて恐ろしいほどキレまくったり…。

周囲からとても評価が高くて良い先生だと言われていた人が、息子に対して平気で差別的行動をとり、誰もいない所で息子の心をひどく傷つけていたとか…。(校長先生・教頭先生に相談してすぐに対応してもらいました)

それとは逆に、

今までとても気難しくて付き合いにくい人だと思っていた方が、息子にはとても優しくて、まるで自分の孫のように愛情を持って可愛がってくださったとか…。

前からとても信頼していた良い人が、息子に対しても態度を変えることなく対等に平等な態度で、愛をもって誠実に接してくれるので、「この人はやっぱり間違いない!」と信頼がさらに増した…とか。

こんな感じで、障碍を持つ息子に触れたとき、相手はどんな反応をするのか?で、その人の「本当の姿」がよく見えてきます。人間性や本性、本音…等々。

建前で上手いこと隠してきても、息子の前だと、すぱっと仮面が剥がされて、本音の姿がむき出しになるのです。

なので、面白いなぁ~と思いました。

息子のおかけで、「大事にすべき関係」「切り離してよい関係」が浮き彫りになるので、とても参考になりました。


こんな感じで、私は息子の子育てを通して、人の様々な姿を見つめてきました。

障碍児の子育てには、隠し事は一切通用しません。エゴもプライドも全部剥ぎ取られます。

正直な人・真実を生きる人が、大きな実りを得るのです。

子育ての体験のお蔭で、私たち夫婦は、他の親では体験できない道を通り抜けて、人として大きく成長したなぁ~と思います。


障碍は不便だけど、不幸ではない。

乙武さんのこの言葉。今も私の心の中で鳴り響いています。

ホント、その通り。不便なことが多かったけど、だから自分たちで切り開いてきた感はある。決められたレールじゃなくて、自分たちで新しいレールを敷く…みたいな、ね。

だから当然、大変だったよ。でも、私たちはそれがとても楽しかった…。


今、障碍児を抱えて悪戦苦闘している若い親御さんたちに、私は「大丈夫。何とかなるよ!」と励ましてあげたい…そんな気持ちです。

障碍があろうがなかろうか、不幸な人は不幸だし、幸せな人は幸福でいる…。幸せかどうかは人が決めるのではない。当事者の自分たちが実感して決めること。

だから、あまり気にしないで、自分たちの「幸せのかたち」を築き上げてほしいな…と思います。

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Emiko(シモハタエミコ)
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