わが青春の名古屋・塩釜口駅【#駅にまつわるエトセトラ】
名古屋・鶴舞線の塩釜口駅。
ここは私が生まれて初めて一人暮らしをした時の最寄り駅だ。
塩釜口駅で地下鉄を下り、改札を抜けて3番出口に出ると、目の前に飯田街道が走っている。駅の周辺は道路沿いにいろんなお店があり、結構賑やかだった。ちなみに、この辺りは丘のような地形で、隣の八事駅から塩釜口駅までを徒歩で歩くと、なだらかな山を一つ越えたような感じになる。
私が当時住んでいたアパートは、この塩釜口駅3番出口から徒歩で8分くらいのところにあった。10分まではいかないけど、5分以上はかかる…という微妙な位置。酷く雨が降る日は、部屋から駅までの道のりがとてつもなく遠く感じられた。
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アパートの前には、よく整備された一直線の道路が走っていて、普段から車が猛スピードて走り抜けていく。
とても走りやすい道だからかな? 週末の夜になると暴走族が出没し、バリバリバリー!パラパラパラ~!と大きな音を上げて爆走していた。今まで暴走族なんて見たことがなかった田舎娘の私は「すげー(゚Д゚;)!」と驚きながら、窓からそっと爆音を発している集団を観察していた。
そう、ここは四半世紀前は暴走族のコースだったのだ。(今は知らんけど)
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ちなみに、私の大学デビューはとても順調で、入学早々、同じ学科で同じクラブに入った女の子が、私と同じアパートに住んでいることが分かり、私はその子とすぐに友達になった。
このアパートはお風呂とトイレが共同の格安物件だったけど、民生委員をしている大家さんが日中はちゃんと詰めていらっしゃることと、女子学生専用だったので、安心できて気楽だった。アパート内で他にも同学年の友人が何人かできて、結構楽しかった。
そして、この大家さん。生まれも育ちも「尾張・名古屋」のバリバリの名古屋弁ネイティブで、時々会話を交わしているうちに、私も自然と名古屋弁が伝染してしまった。
しかし、あれから四半世紀が経ち、私もすっかり名古屋弁を忘れてしまった。だから時々、河村市長の名古屋弁を聞き、あの独特のイントネーションを思い出している。
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そういえば、塩釜口駅3番出口から、少し入ったところに、「リバプール」という名前のレストラン&バーがあった。
店内はヨーロッパの古いパブ風のしつらえで、落ち着いた雰囲気。ビートルズの曲がずっと流れていた。お子ちゃまだった私と友人は、バーではなくお食事処として、ここをよく利用した。クラブ活動で帰宅が少し遅くなる時は、このリバプールに寄り、ハンバーグ定食や豚の生姜焼き定食をオーダーして食べた。ご飯を食べながら、講義のことやクラブのこと、友達のこと、恋の話もよくした。
この店のオーナーさんはビートルズ世代で、当時は40代だったんじゃないかな。もう店は無くなっていると思う。今は私の記憶の中に残っているのみだ。
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恋で思い出したけど、初めて好きな人と自転車の二人乗りをしたのも、この塩釜口界隈であった。
私の自転車を彼が運転し、私が後ろの荷台にちょこんと乗って、2人でアパート近くのコンビニに行った。一緒にお菓子を買いに行ったんだと思う(昔過ぎて、細かいことはもう覚えていない…)。蒸し暑い名古屋の夜を、私たちは笑いながら風を切って走った。
しかし、この恋は一年ほどで儚くも終わってしまった。卒業して以降、彼とは一度も会っていない。今も元気でいるのだろうか?
いっぱい笑って、いっぱい泣いた。甘酸っぱい思い出。
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私の大学は、塩釜口駅から一駅離れた八事駅の近くにあった。
アパートから徒歩で大学に向かうと30分ほどかかる。良い気候の頃は、ダイエットと称して、時々、徒歩で大学に通っていた。元八事4丁目から八事本町へ。飯田街道の裏にある閑静な住宅街の道をテクテクと歩く。飯田街道よりうんと傾斜がある道だ。坂を上り、坂を下る。この道の沿道には、所々に桜の木が植えられていて、春には見事な桜花を楽しむことができた。
大学最後の春、私はこの道を歩きながら、美しく咲く桜の花を眺めて、「ここを歩くのは、これが人生で最後になるかもしれないなぁ…」とふと感じ、切なさで胸がいっぱいになった。
その後、私は袴姿で卒業式に向かい、この街とサヨナラした。
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あの街に暮らしていた頃から25年以上が経ち、今は当時の記憶もかなり薄くなり、断片でしか思い出せない。
だけど、あれは間違いなく私の青春だった。
懐かしくて甘く、少しほろ苦い。私の大切な日々だった。
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今回、こちらの企画に乗っかる形で、私の「駅にまつわる思い出」を書かせていただきました。
やんさん、素敵な企画をありがとうございます♡