わたしの人生これでいいのかな?
今朝、父の様子がおかしく救急車を呼んだ。母は、氣が動転してしまって、休日だというのに、病院に電話して、繋がらないと言った。そりゃそうだ。わたしは、案外、こういうときは冷静で、適格に対処をする。救急車には母が付き添い、わたしは、あとから追いかける形で病院へ向かうことにして、先祖に手を合わせた。
そしたら、メッセージがやってきた。
くるときはくる。
そう。助けてくれと祈ったところで、くるときはくるのだ。
記憶にはないけど、幼いころ、なんとなく、先祖なのかなんなのか、見えない存在と交信していたような氣がして、大人になってから、何度か試みてみたけど、まったくできないでいた。それが、今日は、ほんとに小さな声というか、微弱なテレパシーというかで、そのメッセージが届いた。
どうやら、そういうメッセージって、わたしが想像していたよりもうんと小さいらしい。
対処は早かったようだけど、まだ安心できる状態ではない。
父が70過ぎた途端にものすごく老け込み、もう長くはないことを日々感じる。ここのところ立て続けに病氣が発覚していて、それも、ひとつ間違えば、突然死に至るようなものばかり。大事に至る前に見つかっているのは幸いなのだろうけど、こうも病氣って重なるものなの?と思う。
出張に出るとき、「行ってくるね。」「氣を付けていってこいよ。」っていうやりとりをして、これが最後かもしれないということも思う。
特にやりたいことがあるわけでもなくて、仕事もない。パチンコに行くか、テレビを観るかで過ぎていく日々を過ごしている父が、北大東島にいる孫に会いに行くために、500円玉貯金を始めて、生きていく意欲が湧いてきたのかなとちょっと喜んでいた矢先に、次々病氣が発覚して、本人どんな氣持ちでいるのだろうか。と思わずにはいられない。
人はなぜ生きるんだろう?
自分がいかに生きるかを考える。
これでいいのかな?
自分に問う。
うん。これでいい。
これまでの人生を後悔したってしかたがないし、今のわたしの生き方なら、これでいいって思える。
学生のころ、明日死んでもいい。って本氣で思っていて、それくらい毎日、充実していて、本当に愉しかった。社会に出てからは、人生に迷いを感じて、学生にころのようには思えなくなってしまって、なんとかあの頃のように愉しく過ごしたくて、あの頃よりもさらに、今日死んでもいいって思えるくらいに生きたいって思ってきた。
今の、”これでいい”って思えている感覚って、ちょっと前にはなかった感覚だ。ちょっと前まで、「いやいや、ぜんぜん死ねない。」「わたしの人生このままじゃ、ぜんっぜん死ねないから!」って思っていた。
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変わってる。
学生のころのように、毎日、充実していて、愉しい~~~~。ということではないけれど、充実感を感じる日も少ないけれど、それでも、今のわたしの生き方でいい。と思えている。今、自分が選択していることにわたしは、満足している。
自分で自分の人生を選んでいる感覚がある。
自分を生きている。
けど、
満足は現状の中だからね。
コーチから言われた言葉を思い出した。
わたしは、わたしを生きている。
と書いてみると、、、
おもしろいもんだね。「自分を生きている」と書いたときは、自分を生きている感覚があったのに、「わたしは、わたしを生きている」と書いてみると
もっと、わたしを生きられる。
と出てきた。
生きよう。わたしを。