アニメ「海のトリトン」最終回で一つの哲学を得た小学生な私
結構、「海のトリトン」最終回については、これまでのブログなどでも書いているので、ああ、その話ね、と思う方もいるだろうが、いつものようにダラダラと書かないように気をつけようと思う。
子どもの頃に影響を受けた物として、これはどうしても外せないのだ。
アニメ「海のトリトン」は手塚治虫先生の原作とはかけ離れた作品であるけれど、あれはあれで素晴らしい作品だと思っている。
監督はガンダムの富野由悠季さんが、 富野喜幸という名で仕事をされていた頃の作品だ。
富野監督の原点、私はそう勝手に思っている。
ストーリーは、Wikipediaで・・・・
かっこいい緑の髪の少年・トリトンが悪者ポセイドン族と戦うお話、小学生の私はそう認識して毎週ワクワクしながら「海のトリトン」を見ていた。
ところが、最終回で、小学生の私は大きな衝撃を受ける。
最終回に至るまでも、子どものアニメとは思えないような哲学的なテーマがちりばめられてはいたが、ずっとトリトンをヒーローとして見続けてきたからこその最終回の衝撃は、小学生の私には刺激が強すぎたかもしれない(笑)
「勧善懲悪」が当たり前、「主人公が善」が当たり前のアニメの世界。
なんだろう、これは!
小学生の私はびっくりした。
「実はトリトン族こそが悪であり、ポセイドン族が善であった」という善悪逆転の最終回。
ポセイドン族からすれば、ポセイドンの神像への人身御供にされ、それでもなんとか生き残った人たちがポセイドン族として地下でひっそり暮らしてきた、その自分たちを滅ぼす武器・オリハルコンという短剣を手にするトリトンこそ悪。自分たちを滅ぼす武器を掲げるトリトンから自分たちを守るためにトリトンと戦ってきただけだというではないか。
そして、ついにポセイドン族の本拠地にオリハルコンの短剣を掲げて乗り込み、トリトンは、結果的にやっと生き残ったポセイドン族を滅ぼしてしまう。
そこには、トリトンが来るほんの少し前まで、人々が普通に暮らしていた様子が見える。そして、その老若男女、子どもがその場に倒れ息絶えている姿が。
勧善懲悪は見ていて楽だけれど、私は、アニメ「海のトリトン」から大きな課題と哲学を得たのは確かだった。
視点が変われば善も悪も変わる。
自分の信じている善は本当に善か? それを他者に押しつけてもいいのか? と。
子どもの頃に、あのアニメを見られて本当に良かったと思う私がいる。
私が子どもの頃のアニメって、毎日午後7時には何かやっていて、アニメ好きでなくてもアニメを見、そんな子どもに哲学を持たせるきっかけを与えるものだったよなぁ。
今、アニメは夜中にやっていて、録画して見せる親がいない限り子どもはアニメに触れることが減った・・・・。子どもに見せられないアニメも時間帯の関係上多い。
今の子どもたちは、つけたら流れる番組からどんな哲学を得るのだろう。
テレビ界隈の人は、その基本をもう一度思い出してほしい。いや、そういうアニメがもう作れないのかもしれぬ(独り言)。
ここから先は
サポートありがとうございます。自営業で、人と接する仕事をしており、コロナの影響でダメージを受けている中、本当にありがたいです。