時間の散歩

 母と平井を散歩した。

 たったそれだけの出来事を、ふいに文字に起こしたくなった。

 嫁いでから二年が経とうとしている。「結婚した」ではなく「嫁いだ」というのは、「結婚」の中に「実家を離れる」という出来事も含まれているから。一人暮らしをしたことがない私にとって、一度に二つの分岐点を迎えたのだ。

 結婚前に母と頻繁に散歩したかというと、そんなことはない。母は毎日散歩に行くが、私はことごとく出不精で、誘われても行かないことが多かったし、そもそも家にいないことがほとんどだった。

 この町を離れて、毎日会っていた人に会わなくなっても、「さみしい」と感じたことは一度もない。兎にも角にも一人でいることが好きだし、家の中が好きだ。家の中にずっといるのでは、外の町がどこであろうと関係ない。私は殻にこもり続けるカタツムリで、移動した先で「こんな町なんだ」と少し顔を出してはすぐに引っ込んでしまう。本当に家を背中に背負って歩けたらどんなにいいだろうと思う。

 この前久しぶりに実家に帰って、夏がなんとなく終わったような風が吹いていて、そういえば夏の間ほとんど家にこもりきりだったことに気がついた。いくらなんでももぐらじゃあるまいし、こんなに引きこもっていては体に良くないだろうと思った私は、母からの散歩の誘いに快く応じることにした。

 平井から東大島に向って歩くと、「風の広場」という大きな公園がある。そこのコキアがどれくらい赤くなったか見に行こうと言う。そんな自分の生活に全く関係のない植物の変化をこまめにチェックして何になるんだ、と思いながらも母について行った。

 夕暮れの空は秋の色をしていて、汗ばむほど暑いことが嘘みたいだった。申し訳程度の風が、私と母の微妙な距離の間に吹いていく。

 この前パパが変な調味料を買ってきた、とか、兄の靴下の右足ばかり穴が空くのはなぜなのか、とか、久しぶりに会って他に話すことはいっぱいありそうなのに、そんな話題しか出なかった。桜並木の道に入ると、母は桜も咲いてないのに「この道すてきよね」と言う。「桜の頃はきれいだよね」と言うと、「咲いてなくてもきれいよ」と空を見上げる。何十年も見てきた桜の思い出をプリントアウトして、目の前にかざしているみたいだった。

 私はこの桜並木が満開の頃を、もう二年も見ていない。高校生のときは毎朝自転車で通っていた。降りかかる桜吹雪に目を細めた日もあった。

 そうか。私が二年間見上げていなかったこの桜を、母は毎年、毎日通っては「すてき」と思っていたのか。

 そう気づいたとき、私は急にさみしくなった。

 嫁いでから一度もさみしいと思ったことなんてなかったのに。いつも見ていた景色を私はもう見ていなくて、母だけが変わらず毎日見ている。その母と私の大きな隔たりに気がついたのだ。

 私の中の時間の流れがいつのまにか変わっていた。平井の町で、母と同じものを見て、同じように刻んでいた時間が、私だけどこかで切り替わっていたのだ。

 あそこにお店がオープンした。新しい家が経った。またドラッグストアができた。お祭りの日が決まった。

 そんな何気ない情報交換の毎日が、いつの間にか噛み合わなくなっていた。「けっこう前にできたよ」と言われて、新鮮さを共有できていなかった。恋人ではなく家族だから、そんな些細なすれ違いなんてどうでも良くて、なんとも思っていなかったけれど、本当はすごく重大なことで、大切なすれ違いだったのだ。

 風の広場につくまで、母はずっと「この花はもうすぐ咲く」とか「去年の方が実がなっていた」とか、やたらと色んな植物の事情を紹介してきて、他人様のものによくそんなに関心が持てるなと思いながら、今までは聞き流していたけれどちゃんと聞いておこうと思った。

 コキアはまだまだ黄緑色だった。ちっとも赤くなかった。これから赤くなるなんて想像できないくらい、しっかりと黄緑色だった。

「なんだ。まだまだじゃん。いつくらいに赤くなるの?」

「いつかなぁ? 赤くなったら教えてあげるよ」

「教えてくれても……」

 教えてくれても、赤いうちに見に来られるかわからないよ。

 そう続けそうになって、言葉を飲み込んだ。

 きっと母は、赤いコキアを一緒に見たいのではなくて、母の流れる時間を共有したいだけなのだ。

 きっと母は、私と母の時間がいつのまにか別の路線を走っていて、すれ違ったり離れたりしていることにもうとっくに気づいていたのだろう。それでも私に時間の共有をしたくて、平井の事情を教えてくるのだ。一緒だったはずの時間に、たまには戻れるように。違う路線でも、たまには同じ駅に停まることができるように。

 これから先、一緒に赤いコキアを見られる日は来るだろうか。また満開の桜の下を共に歩けるだろうか。植物の盛りは一瞬で、タイミングをあわせて同じ場所に立つのはなかなか難しいものがある。

 自分にもさみしいと思う感覚があったのか。

 帰り道、もっと長く、どこまでも散歩をしていたいと思う自分がいた。同じ駅に停車しているこの時間がもっと長く続いてほしかった。

 帰りにケーキ屋さんに寄り道して、父と兄含めて4人分のアイスを選んで買って帰った。めったに甘いものを買わない母が、買おう買おうと言ったのだ。もしかしたら母も、この時間の共有に何か高揚と、名残惜しさがあったのかもしれない。

 時間にして1時間半。私と母を隔てていたすれ違いを埋めるには十分だった。でもきっといつか、1時間半で足りない日が来るだろう。隔たりを埋めるにはもっと時間が必要になるときが、いつか来るのだろう。

 嫁ぐことはこういうことなのだ。

 二年経ってやっと気づく。

 実家とは、故郷とは、違う路線を走る時間のことなのだ。

 私はさみしい。でもそれは悲しみではない。

 母もきっとさみしい。でもきっと悲しいわけではない。

 母と平井を散歩した。ただそれだけ。母にとっても私にとっても、ただ、それだけのことなのだ。



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