グレゴリオ聖歌の晩課を教えるのは難しい
フォンス・フローリスの渡辺研一郎さんのグレゴリオ聖歌の入門講座で晩課を学んでいるのですが、晩課を教えるのは相当に難しい、と感じたことがありました。
グレゴリオ聖歌の詩篇唱和はアンティフォナ→詩篇→アンティフォナという構成で、詩篇は2組に分かれて一節ずつ交互に歌います。あるとき、受講者から「交代するタイミングはどのくらいなのか」という質問がありました。そんなことを気にしたことがなかったので、かなり面食らいました。
一般の人が晩課を体験するなら、教会や修道院で「晩の祈り」などに参加するのかと思います。すでにそこの共同体の雰囲気があるので、声も音量も話す速さもそれに合わせていくことになります。私の場合も毎週某所の晩課に参加していて、周りの声を聞き、それに合わせていきながら、晩課とは何かというのを1年以上かけて感じていました。
しかし、この講義では、互いに知らないメンバーで一から作っていかないといけない。渡辺さんはソレム修道院でのグレゴリオ聖歌の典礼に参加した経験があるので、彼の中にはイメージがあるのでしょうが、やったことのない人にそのイメージを伝えるのは難しいように感じました。
渡辺さんも「これくらいかなあ」と息を吸うタイミングなど示していたのですが、つい口を挟んでしまいました。「日本語で交互に読むのと同じ感じで呼吸したり、入れ替わってみたらどうですか?」
普通の日本語の聖務日課でも詩篇唱和があり、詩篇を交互に唱えます。ラテン語だと難しいので、まずは日本語でやったほうが良さそうに思ったのです。
それで、渡辺さんもやったことがないとのことだったのですが、詩篇唱の日本語訳を交互に読み交わしてみました。ところが、全然合わないのです。早くしゃべる人、声を張り上げてしまう人、人よりも前に出ようとする人。日本語でさえ一つにまとまらない。それでも日本語なので、少しずつ交代のタイミングがわかってきた、というか、おもむろに誰かに合わせていくということがつかめてきたように思いました。
いつもの晩課について思い起こすと、晩課は18時からで、日も暮れて、ろうそくがついている聖堂で、忙しい一日が終わってまったりと、おごそかな雰囲気の中で行われます。誰も声を張って歌ったり、歌いながら変な動きをしたりしない。呼吸や歌い出しのタイミングを合わせようとしなくても、自然に合っていく。晩課には共同祈願がありますが、ミサが世界平和や共同体のための祈願であるのに対して、晩課では個人的な誰かのために祈ります(私が晩課で一番好きなところです)。
この雰囲気は、初めてグレゴリオ聖歌に触れる人にはなかなか伝わらないだろうと思います。実際に体験するのが一番ですが、クリスチャンでない人が晩課に出るのはなかなか難しいように思います。”Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto”(「栄光は父と子と聖霊に」)と歌う時にどこでお辞儀をするのかという質問もあり、多分一度晩課に行けばわかるのだけど、と思いながら聞いていました。
講座ではノンクリスチャンの方が多いようなのですが(渡辺さんも「うちは浄土真宗だから」と言っていた)、晩課はクリスチャンでも難しいのです。学校の生徒はミサや礼拝でオルガンを弾き、グレゴリオ聖歌も歌うクリスチャンばかりで、教会音楽を学ぶ仲間として深い繋がりがあるのですが、それでも晩課の授業となると馴染みがないので、フォンス・フローリスの講座と同じくらい混乱するのです。
混乱する一番の原因は、晩課なのに朝や昼間に練習するからかな?日も出ていて明るいし、まだみなさん元気だものね・・・。
さて、私ならどうやって晩課を教えるだろう。教える対象が誰であれ、教える側は神学的な知識が絶対必要になる。「キリストと一緒に生きている人、祈りの人」ということが滲み出るような圧倒的な神学の知識と実践。限られた時間の中で、ある程度の物を作ろうとするなら、一滴の神学的な知識が人々をひとつにするから。