「傾聴」の真髄 - 精神科医としての学びから
精神科の診察室は、「聴くこと」の本質を教えてくれる。
初診の患者が入ってくる時、私はまず自分の姿勢を意識する。
精神科医になりたての頃、上級医の診察に同席する機会が多かった。
優れた医師の診察には明確な特徴があり、患者の反応を観察することで、医師として目指すべき姿が見えてきた。
電子カルテばかり見つめ、患者と目も合わせず定型文を並べる上級医。その横で、失望の色を隠せない患者の表情。それは今でも鮮明な記憶として残っている。
対話の基本は姿勢にある。体を自然と患者や家族に向け、適度な視線交流を保つ。時計やカルテに気を取られず、目の前の人に集中する。一見些細なことだが、この姿勢づくりは診療の要となる。
ある日の外来で出会った新患の女性は、最初、言葉を慎重に選んでいた。まるで私を試すように。私は黙って耳を傾け、時折「なるほど」「そうでしたか」と相槌を打つ程度で、評価も判断も控えた。
すると彼女の言葉は、堰を切ったように溢れ出た。長年抱えてきた鬱屈を一気に吐露し始めたのだ。時折涙を浮かべながらも、確かな意志を持って語り続けた。
「こんなに話を聴いてもらえたのは初めてです」
診察時間の終わり際、彼女はそう呟いた。私の胸は締め付けられ、同時に傾聴の力を改めて実感した瞬間だった。
傾聴について考える時、いつも思い出す光景がある。
学生時代、友人とコンビニの安酒を飲みながら人生を語り合った夜のこと。ふと父の死について話し始めた私に、友人は一切アドバイスをせず、ただ黙って耳を傾けてくれた。真摯な眼差しで、時折温かな微笑みを浮かべながら。
深夜の公園に流れる風の音と、彼の静かな呼吸だけが響く中で、不思議と心が軽くなっていくのを感じた。今思えば、その沈黙こそが完璧な「傾聴」の形だったのかもしれない。
現代人は誰もが「理解されたい」という深い欲求を抱えている。しかし皮肉にも、その思いが強すぎると、かえって人は心を閉ざしてしまう。
自分の経験を語りたい衝動が湧いたとき、それを一旦脇に置く勇気が必要だ。相手の言葉を最後まで聴き切る忍耐。これらは意識的に培うべき技術である。
具体的な実践として、まずは1日1回、誰かの話を中断せずに3分間聴くことから始めよう。時間を計ると、3分間の「純粋な傾聴」が意外に難しいことに気づくはずだ。
たとえ「私も同じ経験が...」という言葉が喉まで出かかっても、グッと堪える。その代わりに、相手の表情や声のトーンの変化に意識を向けてみる。すると、言葉の「間」が見えてきて、語られない思いが静寂の中からふわりと立ち上がってくる。
現代において特に重要なのは、人の話を聴く時にスマートフォンを手に持たないことだ。診察室でも、家庭でも、友人との会話でも、画面ではなく相手の目を見る。そこには思いがけない表情の機微が宿っている。
「話上手は聞き上手」という言葉がある。しかしこれは表面的なテクニックの話ではない。
真の傾聴とは、相手の存在を丸ごと受け入れる覚悟から始まる。それは自分を一旦脇に置き、相手の言葉に静かに耳を傾けることで生まれる深い理解だ。
今この瞬間から、誰かの話に耳を傾けてみよう。
評価も、判断も、アドバイスも置いて、ただ聴く。すると必ず、新しい対話の扉が開かれるはずだ。なぜなら、人は真摯に聴いてもらえた時にこそ、本当の心を開くのだから。