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共感の再定義:多文化共生時代に求められる“分かり合えない”前提の理解

私たちの社会では「共感性」は高く評価されている。

むしろ「あの人って共感性に乏しいよね」という言葉は、相手を低く見積もる悪口として受け止められがちだ。

また、「子どもをどのように育てたいか」という問いに、「優しい子」と並んで「共感できる子」と答える人も少なくない。

このように現代では、「共感」は人間関係を円滑にし、集団を安定へと導く鍵であり、周囲からの信頼を得るために必要不可欠な特性とみなされている。

だが、「共感」という言葉の背後には、単純な「思いやり」や「同情」を超えた、より深く複雑な心理的営みが隠されている。平田オリザ氏が著書『分かり合えないことから』で示唆する「シンパシーからエンパシーへ」の転換は、私たちが安易に「相手のことが分かる」と思い込む従来の共感理解を問い直すものである。

「シンパシー」とは、一般的に相手の感情に寄り添い、似たような悲しみや苦しみを一時的に共有することだとされる。そうした行為によって、私たちは無意識のうちに「自分は相手を理解できた」という安心感を得る。

しかし、そのアプローチは、しばしば上から目線の「なぐさめ」や浅薄な「同情」へと陥りがちだ。医療現場やカウンセリングルームでさえ、「大変でしたね」「分かりますよ」といった表面的な言葉が、かえって当事者の深層心理に届かず、不信感を招くことも珍しくない。

親子関係でも同様である。多くの親は「我が子の気持ちはわかる」と思い込んでいるが、実際には子どもが何を感じているかは、子ども本人にしか正確には分からない。

さらに、大きく異なる文化的背景や人生経験を持つ他者に対しては、シンパシー的な「即時の感情共有」自体が困難である。むしろ、「分かったつもり」で振る舞うことが、溝を深める要因になり得る。

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