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それでも学歴が愛おしい?100年前から赤門出の紳士に恋焦がれる私たち

赤門出の方でさえあれば、身も心も捧げ尽くして惜しむところはない

先日、100年ほど前の婦人雑誌「婦人倶楽部」を眺めていたら、ある記事が目に飛び込んできた。「若き妻の告白」と題された特集で、見出しには「理想の通りにはいかぬ」、「地方行きは嫌なこと」という文字がおどる。どうやら10人もの若きご婦人方が、普段口には出さない本音を赤裸々に告白しているらしい。

その中でも熱を帯びていたのが、3人目のご婦人の告白だ。「ああ学士の妻!学士の妻!」と始まって、「学士夫人、といかにその名は私どもに烈しい憧憬れの心を起こさしめたでしょう」と結婚前の回想が幕を開ける。

赤門出の方でさえあれば、私は身も心も捧げつくして惜しむところはないと、これが若い処女の虚栄心とやらでもございましょうけれど、あはれや何不足ない女一人の熱のあがりよう、人様からはずいぶん笑われもしましたけれど、笑われたからと言ってそれで燃えしきる胸の焔が消えも弱りもする道理はございませんので、ただもう若い学士の妻、とそればかりを心に掛けていたのですよ

なんて清々しいんだろう。その通りだ、誰に笑われたって、一旦燃えた胸の焔は消えやしない。「学士に烈しいあこがれ」とか言いながら、すぐに「赤門出の方」に対象をしぼってきたところも正直でいいじゃないか。赤門出というそのワードで、胸の焔が燃え上がるのだ。

このご婦人、「赤門の人でさえあれば充分信頼するに足る」そうで、一橋は「どこか軽薄なような気が」するのでNG、早稲田は「てんで考えてみたくもなし」。そうやっていくつものプロポーズを断っていたら、「小野小町ぢゃございませんけれど、いつしか花の色も衰えてきたような気がして、いらいらしはじめ」てしまったそうだ。それは困った。


燃えあがる胸の焔の正体

人は学歴じゃないよ、中身だよ。そんなことは百も承知だ。それでも「赤門出」という三文字にわくわくどきどきしてしまう。私だって、もし夫に「俺、ずっと隠してきたけど、実は東大卒なんだ」なんて言われたら、ドギマギして舞い上がってしまうだろう。人は学歴じゃないのに、中身なのに。ああ、この気持ちは一体なんなんだ。

よく学歴から連想されるのは、収入やステータスだと思う。久しぶりに会った友人との会話で、「夫の出身?ああ、本郷にある大学で、え、赤門の、そうそう、東京大学なんですの」と伏し目がちに答えるのは、なんとも気持ちが良さそうである。

ただ、それだけではない、と私は思う。
ご婦人は、「赤門での人でさえあれば充分信頼するに足る紳士である」のあと、こう続けている。「それこそ酸いも甘いも味わいつくした人である」と思っていたし、「静かに煉瓦建ての建物の中で新しい学説を聞き、レクチュアを聞いた人たちに、どこに一点非の打ち所もあるまい」と信じていたと。

これは、収入やステータスの話ではない。
赤門出イコール、内面的に優れている。ご婦人はそう言っているのだ。

この気持ち、痛いほどよくわかる。私だって、もしこの時代に生きていたら負けない自信がある。「赤門出の方なら、玄関の靴を揃えてからお出かけになるにちがいない」とか、「赤門出の方なら、道端ですれ違った子供に声をかけるとき、きっとひざを折って子供の目線になって微笑んであげにちがいない」とか、周りに話しまくって失笑を買っていただろう。

つまりこれは何かというと、願望なのだ。
「あのアイドルは24時間誰の悪口も言わない」とか、「商社マンはおしゃべり上手で飽きさせない」とか、そういうものと同じ、願望だ。

これは非常に厄介なもので、取り扱いには相当注意しないといけない。なんといっても自分の願望なので、リアルではない。アイドルだって人の悪口は言うし、商社マンだってつまらない人もいるし、赤門出が信頼に足るとは限らない。


しかし、くだんのご婦人は、十分な注意を払わぬまま赤門出の方と結婚してしまった。
そして結婚後について、こう打ち明けている。

兎に角に、華やかなりし過去の理想も、今から思えば空想であったのですね、学士の妻、といったところでそれが何でございましょう。わが後に続いて進みたもう少女たちよ。ゆめ先人の悔いを再びしたもうなよ。これが私の皆さんに贈るたった一つの言葉でございます

容赦ない悲壮感。あの胸の焔はどこへやら。もし発言小町にでも投稿したら、「あなたが甘すぎる」「夢を見ていただけ」と袋叩き間違いなしだ。
私たちは、今も昔も、願望とリアルをきれいに仕分けることが出来ない。ごちゃまぜにして突き進んで、取り返しがつかなくなったところでやっとリアルに気が付く、そんなことをずっと繰り返している。

裏切られてから幕が開ける

私たちは、ご婦人の悔いを繰り返さないよう、肝に銘じたほうがいい。
もし、自分が「東大卒紳士は〇〇のはずだ」とか思い始めたら、それは自分の願望を映し出していると心得ることだ。これは、東大卒紳士の性質ではなく、自分自身の願望なのと、心の中で何度も反芻する。
誰かに話したくなってしまったら、心許せる友人に「願望だってわかってるんだけどね」としつこく断りながら打ち明けてみよう。何の断りもなくSNSで断言してはいけないし、東大卒の紳士に押し付けてもいけない。それは暴力になりかねないからだ。こうだと思ってたのに!裏切られた!と泣き叫ぶのは、自分の部屋で済ませよう。

そうやって、自分の願望を慎重に注意深く取り扱うということは、ねじまげずにそのまま眺めるということでもある。「こんな私の気持ちは間違っているわ」ではなく、「ああ、私はこう感じているのね、そうなのね」と認識する。あとはひたすら、その願望を味わい尽くそうじゃないか。

そのまま大切に取っておいてもいいし、ふくらませてもいいし、自ら裏切られに行くのだって気持ちいい。どの時代だろうと、生身の人間に触れ合えば、あなたの抱いていた願望は必ずどこかで裏切られる。一ミリも裏切られない、なんてことはありえない。

願望の先に見えたリアルに触れようとするもよし、さよならを告げるもよし、新たな何かを発見するのもよし。何かに憧れる醍醐味は、裏切られたその先にある、と私は思う。



あのご婦人が赤門出に憧れたころ、女性の初婚年齢は平均22.6歳だった。まさに願望とリアルをごちゃ混ぜにして失敗する年頃だ。誰だって、似たような記憶の一つや二つあるだろう。

私たちは、そのたびに絶望する。ああ、恥ずかしくて消えてなくなりたい。でもそうやって、少しずつ自分の願望の取り扱い方を覚えていく。人は学歴じゃないよ、中身だよ。もうそんなことはとっくに知っている。だからこそ、自らの願望を味わい尽くすことができると信じている。

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