通勤日記10/1 「出産って本当に痛いの?どうしても信じられないんだけど」
息子が2歳になった。毎日の成長でいちいち感動しているので、誕生日当日にあまり思い入れはない。でも、出産からちょうど二年なのか、と思ったら吐きそうになって、一日中ずっと気持ちが悪かった。
本当に出産はつらかった。痛みを和らげる麻酔まで打ったのに(いわゆる和痛分娩)、陣痛があまりにも痛すぎて痛すぎて、一刻も早く終わってほしいという気持ちしかなかった。周りの人がいくらやさしかろうと、痛いものは痛い、つらいものはつらい、ただそれだけだった。
にもかかわらず、先日、久しぶりに会った友人に、「出産って本当に痛いの?俺信じられないんだけど」と言われた。「ね、本当はそんなに痛くないんじゃない?」とニヤつく顔に、怒りのあまり絶句。言い返せなかったのが未だに悔しい。
ただ、ぽろっと出たその言葉は、彼の偽らざる本音だと思う。
そもそも、出産経験のある女性の多くが普通分娩をしているわけで、その「みんなが普通にやっていること」=「死ぬほど激痛」というのが信じられない、という気持ちなんだろう。その感覚はわからんでもない。
でも、実際にはものすごい痛い。想像を絶する。これ、「みんな普通にやっているけど、私はつらい」という話ではなく、「みんな普通にやっているけど、みんなつらい」という話だ。
例えば満員電車で押しつぶされるとか、学校でいじめられるとか、そういうこと。みんな普通にやっているけど、みんなつらい。一部の例外や程度の差はあれ、みんなつらい。そして「みんなつらいんだから我慢」「つらいなんておかしい」という、よくある流れになる。
だから、やっぱりつらいことはつらいと自分で認めて、ちゃんと言葉にしたり、出来る限り逃げたりしなくてはいけない。弱っているときには難しいけど。
だって、私たちは、どうやっても逃げられない苦しみを抱えている。大切な人との別れとか、どうしても痛みが分かち合えないとか、これだけはしがみついて離したくない仕事とか。そういうオリジナルな痛みは、ちゃんと全力で苦しまないといけないから、だから、逃げられるものからは逃げないと。心身ともに持ちませんよ。何度でも「逃げていい」と辛抱強く口にして、実際に逃げてみせるしかない。
ちなみに、明治~大正あたりの農家の「普通分娩」は、狭くて暗い部屋で行われ、姑がたまに覗いては「痛がるんじゃないよ、家の恥だからね」とか嫌味を言いにきたらしい。そういう記録がいくつも残っている。
そう考えると、普通分娩も一応それなりに変化してきたのだ。というか、「普通分娩」ってなんなんだ。もっと適切な言葉に変えてほしい。産後のダメージは交通事故並みと聞くから「交通事故分娩」とかどうだろうか。帝王切開だって術後のダメージや痛みは尋常じゃないというから「交通事故切開」とかでいいんじゃないか。
そんな呼び名じゃ、出産がつらいものだと誤解される、とか言われるだろうな。しかし誤解じゃないんだよ。だって普通じゃないよあの行為は。いつか普通分娩イコール完全無痛分娩になればいいんだけど。
そんなことを考えていたら、会社からの帰り道、母から「2歳の誕生日おめでとう」というLINEが来た。息子の誕生日に、私に向かって「おめでとう」と言ってくれるのは母だけだ。思わず涙がぼろぼろっと出たので、ハンカチタオルでこっそりキャッチする。
この二年間、息子はずっとかわいかった。息子がめちゃくちゃかわいいのは、出産のつらい経験とはまったく関係なくて、この子がこの子であるからという理由だけだ。生まれてからこれまで、ずっとそうだった。今日は早く保育園まで迎えに行って、一緒に歌をうたいながら家に帰りたい。
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