祖母の「幸せな最期」に抱いた違和感の正体
3年前、祖母が亡くなった。
子どものころから大好きだった祖母が、いなくなってしまった。
祖母の最期は、いわゆる「幸せな最期」だったと思う。認知症を患っていたけれど、祖父が献身的に介護をしていたし、他の家族も時間を見つけては会いに行った。
祖母が少しずつ弱っていって、ついに食事が一口も喉を通らなくなったとき、祖父は「たくさん管をつないで無理やり生かすようなことはしない」と宣言した。祖母はそれから数週間で、家族に見守られながら静かに息を引き取った。
祖父の意向で、お通夜もお葬式も、身内とごく親しい人だけのものになった。祖母が好きだった花をひとりずつ供えて、何人かがお別れの言葉を送って、ごはんを食べてから、小さな骨を拾った。
みんな、とても淋しそうだったけれど、それでいて満足そうだった。叔母も母も、いいお葬式ができてよかったね、と言い合った。それぞれがゆっくりお別れする時間もあったし、祖母との思い出話に花を咲かせることもできた。
それなのに、だ。
それなのに、私はお葬式のあいだ、ずっと不満だった。
はたして、これは「いいお葬式」なんだろうか。
こういうこじんまりとした「幸せな最期」で、本当によかったんだろうか。
もっと大きな会場を借りて、たくさんの人を呼んで、盛大なお葬式をバーンと開いたほうがよかったのではないだろうか。
私は、冗談ではなく、本気でそう思っていたのだ。
亡くなった祖母は、とてもプライドが高い人だった。
自宅で茶道を教えていて、上等な着物をシャキッと着こなす姿は、いつもかっこよかった。お人形の製作をして個展を開いたり、短歌を詠んで入選したりすることもあって、そのたびに誇らしげな笑顔を見せていた。
もともと祖母は、お金持ちの家に生まれ、お嬢様として大事に育てられた人だ。しかし、15歳のときに満州で終戦を迎え、すべての資産を失って、命からがら日本へ帰国した。過酷な引き揚げの途中で姉を亡くした祖母は、8月15日を「終戦ではない、敗戦した日」だと言っていた。
帰国してからは親戚を頼って食いつなぎ、お金を捻出して教員免許を取って、妹たちを養った。そして、農家の六男だった祖父と結婚した。それからも、娘二人を生み、産後数週間で仕事に復帰して、家族を支えてきた。娘たちが大学を出て自立してから、やっと仕事を退職し、着物やお茶碗を買い集められるようになったそうだ。
こうやって書いてみると、祖母がずっと苦労を重ねてきたことは、疑う余地もない。
でも、そんな苦労は感じさせない人だった。いつも背筋を伸ばして、周りから「ちゃんとした人」に見られているかを気にしていた。私に対して「ちゃんとした家の人と結婚しなさい」「大学に行くなら東大を受けなさい」なんて言うのは祖母だけだった。
だから、私は、そんな祖母のプライドを満たすようなお葬式をしてほしかった。
今まで祖母に関わった人をたくさん招いて、これまでの経歴を大げさに延々と読み上げてほしかった。祖母がいかに素晴らしい人間だったかを振り返り、褒めたたえ、亡くなってしまったことを嘆いてほしかったのだ。
でも、現実はそうはいかなかった。お葬式の中盤、介護施設の方が「お別れの言葉」で、「楽しそうに流しそうめんをしていたことを思い出します」なんて言うもんだから、どうにもこうにも許せなかったのである。
お葬式の場で、祖母を見送ることに集中していないなんて、それこそ祖母に怒られそうだ。
それでも、私の心の中には、「祖母はこういう見送り方を望んでいたんだろうか」という疑問がずっと渦巻いていた。
しかし、お葬式が終われば、また日常が戻ってくる。あれからもう3年が経った。そのあいだに私は妊娠して、子どもを生んだ。
今年のお正月、祖父に年賀状を出して、近々息子と遊びに行きますと書いたら、綺麗な文字で「おばあちゃんに毎日話しかけているので寂しくありません」と書いた返事が来た。
祖父は、自分が死ぬまで祖母のお骨は手元に置いておくといい、リビングの棚の上に、骨壺が入った箱をどーんと置いている。きっと祖父は、箱の前に座って、毎日祖母に話しかけているのだろう。
その姿を想像したとき、ああ、と思った。
ああ、祖父はまだ、祖母と一緒に暮らしているのか。
昔から、祖父と祖母はさっぱりとした夫婦だった。仲が悪いわけではないけれど、二人とも自分の部屋で好きなことをしたり、食事もそれぞれ自分が好きなものを食べたりしていて、自由に暮らしていた。子供たちが巣立ってから、そんな暮らしが30年はつづいていた。
しかし、その暮らしは、祖母が亡くなる1年前に急変した。祖母が、認知症と足の骨折を理由に、施設に入ることになったのだ。
それからの祖父はすごかった。自宅から近くはない施設に、毎日欠かさず通った。ほとんど口を聞けなくなった祖母と一緒にテレビを見て、一緒に食事を食べ、祖母の顔を洗って、歯を磨いた。そしてマットレスを持ち込んで、週に1回は祖母の隣で眠った。
60年以上の結婚生活で、祖父の生活の中心が「祖母」になったのは、初めてのことだったのではないだろうか。祖母が少しずつ弱っていく中、祖父は最後まで明るかった。
その生活は1年ほどで終わりを告げ、祖母は小さな箱に入って、家に帰ってきた。今の祖父は、あのころほど明るくはないけれど、祖母が元気だったころと同じように、のびのびと暮らしている。
よく、「死んでしまった人は心の中で生きている」という言葉を聞く。私はこれまで、その言葉がどうしても腑に落ちなかった。たとえその人のことを毎日考えたとしても、会話もできないし手も握れない、だから生きているなんて表現はしっくりこない。ずっとそう思っていた。
でも、祖父を見ていて、ようやく腑に落ちた。長く暮らしたあの家で、祖母は今でも息づいている。祖父は、朝起きて、食事をして、庭の手入れをして、テレビを見て…そういうひとつひとつと、祖母の気配を、きっともう切り離せないだろう。
そんなことを思って、私はようやく、あのお葬式を受け入れることができた。祖父にとって、あのお葬式は、私が思うような祖母の人生の集大成ではなかったのかもしれない。1年間の夢から醒めて、やっと祖母が家に帰ってくるための、一つの区切りだったのかもしれない。
だってあの日は、みんなでごはんを食べて、他愛のない話をして、その中心に祖母がいて、まるで昔の夏休みのようだった。娘と孫が集まって、いつも似たような話をして、みんなに会えたことにほっとする。祖母は孫の世話をやき、祖父は遠くのほうで満足そうに黙っている。
それは、今だって続いている。祖母の命日はみんなあの家に集まって、くつろいだ格好でお寿司を食べる。よく陽の当たる窓ぎわで、足を投げ出してあくびする。祖父はこの日を誰よりも楽しみにしているのに、途中でふらっと庭仕事に出てしまう。そんな祖父を、私の息子が追いかける。
もし祖母がこの場にいたら、どれだけ誇らしく思うだろうか。まったく、おじいちゃんは好きなことばっかりしているんだから、と顔をしかめながら言う姿が目に浮かぶ。
私にとって、祖母はプライド高きかっこいい女性だった。それは私から見た、私が大好きだった祖母の姿だ。
でも、それと同時に、祖父にとっての祖母は、毎日の暮らしそのものだった。それは今も同じだ。祖父がお葬式をああいう一日にしてくれて、本当によかったと思っている。