出産の介助は仕事か人助けか。100年前に活躍した産婆たちの本音とは。
7か月後の分娩枠を予約する私たち
「7か月後の予定なら、あと2名ほど空いてますよ、予約します?」
産院の受付でそう言われたのは、妊娠が発覚して数週間後のことだった。
2名ほど空いているのは、とある産院の「分娩枠」。人気のある産院は、出産が発覚してすぐに予約しないと、予定時期の定員が埋まってしまう。私のときは、医療設備の整った総合病院が一番早く埋まっていた。
さすが現代っぽい…と思いきや、そうでもない。実は、100年ほど前の自宅出産の時代にも、人気の殺到するお産婆さんもいれば、誰にも呼んでもらえないお産婆さんもいた。
今回は、そんなお産婆さんたちの、ちょっとした営業事情を紹介したい。
「トリアゲバアサン」世代と「エリート産婆」世代
まず、お産婆さんには、大きく二つの世代がある。
名付けて、「トリアゲバアサン」世代と、「エリート産婆」世代だ。
トリアゲバアサンは、100年くらい前まで日本各地にいた、昔ながらのお産婆さんだ。医療知識には乏しく、出産になると、けがれを祓うお守りなんかを持ってくる。
当時、「お産はけがらわしいもの」とされていて、わざと古くて汚い布を使ったり、布団は使わず藁の上で産んだりしていたらしい。地域によってはトリアゲバアサンすら頼まずに自力で出産するとか、「出産後7日間は横になってはいけない」とか、信じがたい風習が山ほど残っていたそうだ。出産で命を落とした母親も子供も少なくなかったという。
そんな地獄のような出産現場に、明治の終わりごろ、救世主が現れる。
それが「エリート産婆」世代だ。
近代化にともなって「産婆規則」という制度ができて、産婆は国家資格になる。全国の優秀な女子たちが、養成学校で医学的な知識を学び、国家試験に合格して、産婆としてデビューしていった。
周りの、「こんな若いおねえちゃんで大丈夫かしら」という心配をよそに、エリート産婆によるお産は、急速に広まっていく。
まず、なんといっても身に着けているものが近代的でかっこいい。聴診器、臍帯用のハサミ、消毒のアルコール、清潔な脱脂綿、点眼薬。お産になると、カバンを抱え、ハイカラな自転車に乗って現場へ急ぐ。
その場にいる家族たちに指示を出し、テキパキとお産を介助し、へその緒をきれいに処理する。毎日赤ちゃんの沐浴に通って、健康状態をチェックする。その的確さと、産後のトラブルの少なさに、お産を頼む人がどんどん増えていったそうだ。
「おれ、かまうことねえ。お前こそちゃんと取れ」
エリート産婆は、地元や嫁入り先で開業するケースが多かったらしい。
そうすると、同じ地域で「開業産婆」が増えて、競争が始まることになる。
例えば、昭和のはじめに足立区で産婆になったスミさんの話。
彼女の自伝(「産婆のおスミちゃん一代記」)によると、あるお寺の奥さんのお産に呼ばれたとき、その介助っぷりが評価され、お寺のご主人に「私の檀家はみんな、あんたに頼むことにしよう」と言われたという。
若かかりしスミさんは「私もなんとかやっていけるかもしれないわ」と涙する。当時は、家族が見守る中でお産が行われ、近所の人も聞き耳を立てているので、腕の良さが評判に直結するのだ。
さらに、山形にあった長沢村という村の話。
ここで大正時代から産婆をしていたエイさんの聞き取り記録(平凡社「制度としての女」)が残っているのだが、この村では産婆が増えすぎて、厳しい競争原理にさらされてしまったらしい。
7-8 人のお産婆さんがいる中で、まともに仕事をゲットできたのは、たったの二人だけ。
それがこのエイさんと、後輩のカヨさんだった。
しかし、この二人の産婆っぷりが正反対なのだ。
例えば、エイさんは、カヨさんの「営業活動」についてこういっている。
「旦那なんていうてっとこさ行って、みてけろのなんだのってあったんでしょう(オカヨは富裕な家に営業廻りでもしたんでしょう)。わたしは絶対みてけろだなんて(私は営業回りなんてしない)。」
カヨさんは、産婆として食べていくために、熱心に営業周りをしていたようだ。しかし、エイさんはそんなことはしない。
そしてエイさん、「はらね、はらね、絶対はったことねえ」という。何をはらないのかというと、料金表だ。
実はエイさん、「診察料なんて取らねけなよ」だし、分娩の料金も「餅と米なの持って来るんだ」。そう、出産前の診察料は取らないし、出産時の介助料も米や餅なんかで良しとしていたらしい。だって「長沢なんて貧乏だけもの」。いやー、エイさん、いい人すぎないか。そりゃ仕事も殺到するでしょうよ…。
一方で、カヨさんは、ちゃんと取る。営業して仕事を取ってきて、サービスを提供し、料金をもらう。それだけでなく、エイさんに、「ちゃんと料金を取れ」とまで言いに行っているのだ。
この時代、各地では「産婆会」が組織されており、診察料や分娩料が一律で定められていた。誰かが安く受けてしまうと、安値争いになってしまって、産婆の利益が守られないから、みんなこれだけお金もらおうね、という取り決めだ。
しかしエイさん、産婆会の副会長だったにもかかわらず、この取り決めを守っていない。カヨさんの直談判もあっさり断ってしまう。なんとカヨさん、このことを言うために、エイさんを温泉にまで誘ったのに、「おれ、かまうことねえ。お前こそちゃんと取れ」と拒否されてしまったのだ。
これ、エイさんとカヨさんの立場の違いが表れている。どうやらエイさんは、産婆は仕事というより人助けだと思っていた節がある。エイさんのご主人はそれなりの地主で、家にお金もあって、「お金を持っている人間は貧しい人を助けるもの」という昔からの意識が残っていたようなのだ。
だから、診察も丁寧にするし、分娩も介助するし、危険な兆候があれば医者に行けと言う。でも、お金はいくらでも構わないし、お祝いの席に呼ばれても遠慮する。
一方でカヨさんは、産婆を仕事としてとらえている。この時代にもてはやされた「職業婦人」だ。ちゃんと産婆としての収入で生きていこうとして、営業活動をしたり、汚れ物を洗ってあげたり、お祝いの席にも進んで参加する。
こうやってエイさんとカヨさんのやり取りを見ていると、出産という現場を背負っていたお産婆さんも、あくまで一人の人間なんだな、と思う。テレビドラマで見るお産婆さんは、いつも白い割烹着を着て、「お湯を沸かして!」と叫んで、母親をひたすら励ますキャラクターと化しているけれど、当然ながら彼女たちには彼女たちの人生があったのだ。
出産の現場に立ちつづける
当時のお産婆さんたちが、それぞれの立場で、生き生きと奮闘していたことが、少しばかり伝わっただろうか。いろんな家族の中に入って出産を介助して、衛生や栄養の大切さを教え、職業婦人としての生き方も披露して。本当にかっこいいなぁと改めて思う。
そんなエリート産婆の時代は、明治の途中から戦争が終わるまで、50年にも満たなかった。
戦後、お産の介助には、助産師の資格が必要となり、産婆という資格は姿を消した。
長沢村のエイさんは、「生めよ殖やせよ」と繰り返してきた国が、戦後になって急に「産児制限」「受胎調節」「避妊推奨」と言い出して、産婆たちに啓蒙活動を求めてきたので、会合でキレて椅子を蹴って帰ってきたらしい。
最近の出産といえば、ピカピカの医療設備や、豪華なフルコースディナーなんかがよく取り上げられる。でも、未だに出産の現場は文字通り命がけで、母子ともに無事である保証なんてどこにもないと誰もが意識している、そんな緊張感がある。
昔活躍したお産婆さんのことを書いていて、そこに仕事として毎日立ちつづける人の尊さに、なんともいえない気持ちになった。自分には、そうやって毎日を送る心持ちを想像することすら難しい。
そんな毎日を送ったエイさんは、いったいどんな気持ちで椅子を蹴ったんだろうか。直接話が聞きたかった。