「すべては空気」 いじめ、ハラスメント
さまざまな書籍📚の力をかりて
ポイントを個人的にまとめました
まず前提としてわたしたちは、動物である
まず最初に人間とは、
良い人間、悪い人間がいるというけれど
それは立場によって容易にコロコロ変わる
だからどっちもだ、よくもあるし、悪くもある
妬みという感情があるけれど
それを制御できる人もいれば、
それをそのまま出力するものもいる
だれしも脳内の伝達物質にしたがい行動する
(↑ここらへんはまったく詳しくない)
いわゆる悪でも、それを悪だと認識していない
というよりかは「できない」が正しいのだと思う
大きく個人差がある
自分の行動の善悪をはかれるというのも
遺伝的なのか、後天的なのか、
環境による結果なのか
そういったものも、その人の一つの個性
資質だと思われる
歴史を遡れば、
人を殺めることが良いとされたこともある
いまの時代に生きていると、
「そんなことあったのか」と
思うのではないだろうか
文字上としては理解できるだろうけど、
実際に肌感で理解できるかと
言われれば難しいだろう
それだけ平和とされる今なのだろうけど
どこかで争いを求めたり、
ストレスを他者を用いて発散したり
それができるかと言われれば「する」
理由があれば、それをするだろうし
なによりその場の「基準」いわゆる空気に
よって、その人の行動が定められている
といっても過言ではないと思う
人は常に理性的で、己を制御できるというのは
残念ながら幻想であり、思い込みである
他者にどうこうするもの
脳の伝達物質由来なのではないだろうか
善悪というのも、すごーく視点を上げれば
ただありのままというものだ
いい悪いなんてなく、ただの動物の営み
人間から見た「ありさん🐜」の
生活のようなもので
一定の法則でNPCみたいに動いている
それが人間である、所詮人間
逆にパターンだからこそ
本能というものに対するつけいる隙がある
のではないだろうか
全ては空気によって
これすべてに共通する
人が集まって、組織が構築される
この時に自らがどのような振る舞いをしているか
これ多くのものは「無意識に」
その環境の力に影響される
空気とは無意識だ
書籍に書いてあったが、いじめにおいても
加害しようと思ってそれをするのでなく
その集まりの基準により
無意識にそれをさせられる
というものみたいな感じ
(関連:群生秩序)
使う言葉すら、その環境における
「基準」をもとにしているのではないだろうか
基準とは何か、
・時間
・暦
・空間の広さ
・目的
・性別
・年齢層
・人との物理的距離
・親密度
・管理するものされるものとされるものの割合
・管理するものの性格的資質・タイプ
・ストレス度合い
・外部の目があるかないか
・集まる人の特性、割合
・物の配置
・朝食べたご飯🍜🥗🦀
他、多数
こういったものの複合が
その空間の「力」として作用し
無意識にその力の影響をうけている
当たり前だけれど
人はその当たり前の影響を無意識に
とても強く受けているということだ
風水とかわたしも詳しくなく、
どことなくスピリチュアル感が
あるけれど、物の配置によって
自らの行動はそれを基準に動く
ということは、それと同じように
わたしたち人間は「空間の力」によって
動かされているというものなのだろう
無意識レベルで、気づかないうちに
このことから、「なんかこうなりやすい」
というパターンというのはなにかしらの
影響を受けてその結果がでたというだけなのだ
例えば、
「スーパーで1人買い物をしていて
いじめは起こるのか」という問い
まず、起きない
理由を考えていきたい
・すれ違う人が知らない人、もしくは
顔だけ知っている程度であること
・何か起きれば、周囲の人が店に報告すること
警察沙汰になり、時に罰せられる
・だれかと仲良くしなければいけない
というものがないこと
・そこにおいての目的が明確であること
などなど
↑あたりまえだけど
このような理由が挙げられると思う
さて、では逆にハラスメントが起こりやすい
会社においてはなぜそれが起こるのか
考えられる理由を書いていきたい
・仕事は人間関係と切り離せないこと
・長く時間を共にすること
・苦手な人ともうまくやらなければいけない
・〜でなければいけないという
組織の空気の力があること
・「仕事だから」といういいわけがまかり通る
・建前上「人が大事」といいながら「金」優先
・外部の目が入りづらく閉鎖的な空間
などなど
↑こんな感じだろうと思う
みたらわかるけど人との距離が近く
閉鎖的であるというだけでそれがおこりやすい
スーパーでは起きないけど、会社では
「許される」←これが基準という空気の力
極端だけど空気というのは
それほど顕著にわたしたちに影響しているものだ
会社もスーパーも同じ地球にあるのにねー?🧐
不思議よね
↑ここ大事ポイント、無意識
時代はかわってきていて
小さな声が可視化される時代になってきている
誤魔化しが効かなくなってきている
閉鎖された空間である場合はセーフ
でも、おおやけの場では完全にアウト
証拠を集めるというのは
その場においては許される行為が、
公にされるとOUTだから効力を発揮する
内から外
その場がOPENな環境であることは
外部の目の力が作用しているということ
↑これもあらゆる方法がある
内部で起きた事例を共有していくということは
それを牽制する力になる
そんなのなかったではシンプルに許されず
淘汰される時代にかわってきています
起きやすい環境の逆を考えれば
起きづらい環境というのは模索できる
世の中にはすでに先をいく事例もある
加害者個人にフォーカスするのはもちろんだれど
起きづらい環境をつくることが先かと思う
外部の空気を取り入れる
閉鎖的な環境を作らない
これだけでカビは生えづらい
「わたしたちは、
カビを絶対に生えさせません!!」
「こういう状況でカビが生えやすいです!!」
ということ常に周知するだけでも
カビの菌はまず自由に動きづらくなる
時代についていけなくなる組織
・いじめ、ハラスメントはない
・みんな仲良く素敵な組織です
↑この考えはもう時代についていくのは
難しくなっていくと思う
最近は関連の記事や書籍も多く見受けられる
情報の伝達速度がはやい今
ゆっくりではあるけれど法の改正、
小さな勇気の発信により
健全な道にむかっているのもたしか
それも変わるチャンスである
会社においてそのハラスメントを
まず「認知していない」という会社
「ハラスメントはありません」と言っている
会社は時代についていけなくなると思われます
まずわたしたち人間はいじめ、ハラスメントを
時に行う生き物であり、動物である
誰しもその可能性がある
というのは前提にあるとスタート地点として
納得感があるのではないだろうか
健全な組織はまず
「問題に向き合う」「認知する」
「人の声をきく」「被害者の声を聞く」
被害者ばかりにフォーカスして
つまんでよけていったら、のこるのは
「加害をするもの」
「加害をよしとするもの」
「望まぬ傍観者」がのこる
そして誰だってその行為の
「傍観者」にもなりたくない
それを放置すれば「不誠実」であり
そこに属するものの心理的安全性が保てない
ひとはやめていくし
無駄なリソースをそこにさかなければいけない
余力の少ない、ちいさな組織ほど
むしろそこに注力するのは
大切なのでないだろうかと思う
例えばわかりやすい話
これから優しい世界(わたし)は
コミュニティをつくります
名前は
「集え!!やさしい世界をつくりたい人たち」
とかにするとして
まず個人的に意識するのは
・危険な人物を組織に招かないこと
わたしはまず被害者をだしたくないし
「いじめ」という行為の起点になる
火種を早期発見して対策したい
また仲良くしなければいけないというのは
全然健全ではなくて
〜なければいけないという圧力は
ただのエゴ
「仲良くしなくてもいい」が許されるのが
健全であるとわたしは考えます
※仲良くするなではなく、仲良くしない権利的な
仲良くしろは、加害するものに有利な構造です
世の中に綺麗な言葉はありふれている
使い方によっては
平和や調和みたいな綺麗な言葉の「暴力」が
存在しますので、ご注意を
言葉の使われ方に注意
悪意も隠せばハートの形にはできる
↑はなしそれました
1つの組織として「健全に」
運営していこうとした場合
その中で、やりかたはどうであれ
"意図的に"不和をおこすものが出てきた時
(勘違い、間違い、まきこまれは
誰にでもあるのでしっかりと判断した上で)
加害するを許容したとするならば
その特定の1人が悪とされるのではなく
それを統制できないこの「わたし」の
信用がなくなる結果に至る
これは個人的に嫌われたくないとかでなく
企業価値みたいなものだ
システムとしての優しい世界の力が試される的な
「優しい世界という人間が運営するものは
いわゆるいじめを許容することができる」
↑この時点で、いわゆる健全な組織を
望むものはまずそこを選ばないよね
わたしならまず敬遠する
会社組織にも言えること
加害が許される組織の空気は濁る
リスクのみえやすい傾向の人達が
その空気の悪さに気づく
もし必要な窓口に相談して、それが
放置されるのなら、多くはやめていき
その組織は腐っていくと思う
例えばギフテッドやHSP等の環境における
敏感性というのは「リスクを見える化」する
優れているとかではなくて、
その声の内容に意味がある
※あくまで可能性があるという話
人種というか、
あらゆるグラデーションの人たちが
心理的に安全にいられる状態というのは大切かと
さまざまな人、個人の視点が共有されることは
常に柔軟に対応できることだと思う、価値
危険な人間を放置すると
それが「みえる人」から消えていく
なぜかというと加害者に対処するのではなく
見える化したほうの発言を
なかったことにするという
とりあえずの保身を行うからである
そして、公正世界仮説というものが
その結果に関与することもあるのだろう
被害者に対して、「自己責任」というワードが
思い浮かんだら、一度
立ち止まるといいのかもしれない
簡単な道を選び続ければ、
沼にズルズル落ちていく
苦い薬のまにゃ、船が沈みますで、船長さんよ
後手後手にまわるくらいなら、
時代を先取りたい
まずわたしたちは時に
いじめを行う生き物である
だからこそ
それをエスカレートさせない制度
早期発見、早期対策がなにより大事かと思う
見て見ぬふりは
終わりにしていきましょう
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