2022年9月28日

あの人の目が うなずいていたよ
別れも 愛のひとつだと
銀河鉄道999/ゴダイゴ

今日はカラオケに行った。最終盤、歌う曲がなくなってきたところで普段は歌わない「銀河鉄道999(ゴダイゴ)」にチャレンジしてみた。この曲はアニメ映画銀河鉄道999の主題歌だ。僕は全く世代ではないし映画を観たこともないのだが、母親が昔にゴダイゴというアーティストを僕に教えてくれて、今でも「銀河鉄道999」と「ガンダーラ」の2曲は記憶に焼き付いている。そんな遠い日のことを思い出しながら歌っていた。ところが最後にまともに聞いたのは小学生の頃で、音程はぼちぼちだったが歌詞はろくに覚えていなかったからずっと画面の文字を観ながら歌うことになった。その途中、2番のBメロに差し掛かった時、「あの人の目が うなずいていたよ 別れも 愛のひとつだと」という歌詞を見て「すごく良いな……」と歌いながらに感動したのだ。
別れも愛のひとつだ。そう言い切れる度胸が僕には無い。好きな人、大事な人とは一緒にいたい。一緒にいることで愛を紡ぎより深めたい。そう思うのが普通だと僕は思う。愛をテーマにした映画や小説でも、出来るだけ傍に寄りそうだとか言い切れない想いを言葉にして伝えるだとか、より密に関係性を深める方向へと愛ははたらくことが多い。愛した人との死別も、最期の瞬間まで添い遂げることで愛を表現したり、「その人の分まで生きる」などと言って愛ゆえに死別を乗り切ろうとしたりすることが多い。先日観た映画ヴァイオレット・エヴァーガーデンではギルベルト少佐は愛ゆえにこれ以上自分のせいで辛い思いをさせないようにとヴァイオレットを遠ざけようとするも、最終的には2人で今後を歩むことを決めていた。「愛しているからこそ離れ離れになるんだ。」とは言うものの、それはフリとして効かせるためで最終的には一緒になる、というこのヴァイエヴァ形式も愛をテーマにした物語のオチとしては少なくない。
その中でこの歌は「別れも愛のひとつだ」と言い放ち、サビへと移っていく。これを今後後押しするでも否定するでもなく、この曲は"The Galaxy Express 999 will take you on a journey A never ending journey A journey to the stars"の連呼で消え入るように幕を閉じる。僕は銀河鉄道999の話を知らないので誰が誰に対し何を言って誰が惜別したのかという背景を全く知らないが、この曲はその別れを肯定する終わり方をしたように聞こえる。
自分がある人を大事に想うなかでその人にとって僕の存在が邪魔だと知ったとすると、僕は躊躇わずに別れを提示することが出来る。ただその提示に100%別れの肯定を込めることは出来ず、何%かは、もしかしたら何十%かはヴァイエヴァのようにフリを効かせたいという邪な感情を込めてしまう気がする。「もう今後一生」「金輪際」という言葉をどれだけ頭に浴びせても、意識の奥底の僕がそれを認めることは極めて難しいことのように感じる。
そう思った時に、「別れも 愛のひとつだ」という歌詞は途方もなく遠い所から僕に向けてエネルギーを発する。どう足掻いても届かないほど遠いのに、そのエネルギーが体表に焼き付いて痛みを感じる。僕にこの言葉の凄さは理解出来ても、真の意味を理解することは出来ないのだと思い知らされた気分になる。目の前にいた人のことなのに、何億光年も離れた輪郭も分からない星のように思える。

僕も目で頷けるようになれたらと思う。帰り道の星はいつもより少しだけ眩しく感じた。


夕方のこと。目の前で身長に関する話をしていて、それが無意識的に耳に入ってしまった。
僕は人と比べて背が低い。大人になって父親と同じ身長になったのだが、平均からすると全然足りていない。小学生の頃から背の順ではずっと前の方で、よく背が低いことをいじられた。
もっと背が高ければと思ったことがないと言えば大嘘になる。もっと背が高ければ多少はかっこよく見えるし、背伸びしなくても前の方がよく見えるし、満員電車で息苦しくなることもないだろう。もっと言うと、背が高い女子より低いのは少し悔しいし、背が低いというだけで他人からナメられるし、いつまで経っても夜に外を出歩くと警官に呼び止められ年齢確認をされてしまう。そういった色々な「どうしようもなくやんわりと押し付けられるデメリット」を日々うっすらと感じながら生きているから、背は高い方が良いに決まっている、と僕みたいな低身長男子は思うだろう。僕も背が高ければ、と何度も思った。
だが、僕は意外と背が低いことが気にならないというのもまた事実だ。背が低いことが僕の特徴の一部になっているということを把握すれば、案外悪くないとすら思う。例えば背が低いとナメられる話で言えば、そもそも僕は内気な人間だからナメられるべき人間だ。もし僕が185 cmあってこの性格なら、見た目と内面がチグハグしていて不気味だろう。僕が僕であるから僕みたいな人格を持っていることには納得感がある。逆に、背が低いから内気な性格になっているのではないか(背が高ければ僕も陽気な性格に育ったのではないか)という仮説も考えつくところだが、いずれにしろ世の中には「そんなにガタイ良いのにコミュニケーション下手すぎないか……?」と思う男子が結構いる以上、僕は僕の見た目で僕の人格を持っていて良かったと思える。自分より背が高い女子を見ると悔しいけれど同時に綺麗でカッコイイと思い憧れる。これがもし僕が185 cmあったとしたらそうは思えないだろうと思うとこの感情は僕ならではの解像度で心の中に現れてくれていることになるのだ。
得をしている、などと言うつもりはないし実生活において損をすることがあるのは事実だが、周りがいじったり馬鹿にしてきたりするほどのデメリットだと僕は感じていない。むしろ背が低いことは醜い、可哀想、劣っているなどという狭い視野でしか生きられない君達の方が可哀想だとすら思う。何のために僕よりも高い位置に目が付いているのだろうか。全く愚かである。
もしもルッキズムの土俵の上で全く闘えず敗者となったとしても、僕はもう弱気で内気なのだから構わない。死体に蹴りを入れても痛がられないのだ。そういう意味で僕は無敵なのかもしれない。世間を、下から見下ろせるのかもしれない。

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