2022年7月19日
僕は煙草が大の苦手だ。
家で親が吸っていたから、幼い頃から受動喫煙は日常茶飯事だった。
僕がいかに煙草が嫌いかについてはここでは書かないが、日頃「嫌だなぁ。」と思わされることが多く、辟易している。
僕が今生活している町では、歩き煙草が条例で禁じられている。しかし、普通に生活していれば1日に2, 3人ほど歩きながら煙草を吸っている人とすれ違う。
僕が通っている大学では、指定喫煙所を設けてその場所以外での喫煙を禁じているが、指定喫煙所以外の場所で煙草を吸っている人をよく見かける。
単に臭い。不愉快だ。ただそれだけの理由といえばそうなのだが、煙草を吸ってはいけない場所で煙草を吸い、僕に不快感を与えてくる。この不快感は不当なものなのだろうか。あなたが正しく嗜んでくれたら良いだけのことなのだが、この願望は行き過ぎた我儘なのだろうか。
「そもそも何で喫煙場所が限られなきゃいけないのか。」という声はあるだろうが、受動喫煙の体への悪影響が言われているし、そもそも外を歩いていて望まない煙を吸わされることが正当化されるのは、ちょっと今の社会では考えられない。
今日、大学側から「指定喫煙所外での利用が目立つ」として注意喚起を促すメールが来た。数ヶ月に1回こういうメールが来る。その度に「指定喫煙所の削減、撤去をしなければいけなくなるかもしれない。」という脅しをかけている。僕からしたらさっさと撤去してしまえという思いだが、マナーを守る喫煙者のことを思うと違反者にこんなメールだけでなく直接注意したり罰則を与えたりする等ちゃんとした対応をしてもらいたいものだ。
非喫煙者の煙草嫌いの僕から見ると、喫煙者しか喫煙ルールを無視した喫煙をして僕に不快感を与えてくるので、煙草の強い規制を望んでしまうのは当然の事だ。反対に、正しくルールを守っている喫煙者からしたら規制されるのはたまったものではないだろう。
この『僕ら』は、まともにルールを守れない残念な程に自分勝手な馬鹿共のせいでお互いが幸せになれる道を模索することが出来ない。
煙草ひとつでこのザマだ。僕らはまだまだ戦ってしまう。
今日の蝉時雨は、時雨を超えて嵐のようだった。
奴らは1週間に命を賭けている。けたたましい鳴き声をあげて、オスはメスにアピールする。この1週間で相手を見つけられなかったら、自分の遺伝子は残せない。過酷な夏を過ごしている。
僕ら人類にとっては考えられない生活様式だ。そういう生き物だと理解することは出来ても、彼らの生活を『理解する』ことはなかなか出来ない。
僕は蝉が嫌いだ。だから彼らの命懸けの叫びを「うるさいなぁ」と思う。だいたい、何故そんなに本気になれるのが理解出来ない。僕は自分の種が残らなくても別にいいやと、この年にして諦めてしまっている。蝉にたとえるならまだ1, 2日目の時分だろうか。もう声を上げるのに疲れてしまっている。
周りの人間はそんなことないから凄いなと思う。だから安心して僕は諦められるのかもしれない。
そんなことを思うと、けたたましい蝉時雨の中に「僕はいいよもう。」と諦めている蝉もいるのかもしれない。周りがうるさすぎる。静かにしてほしい。僕はひっそりとただ生きて、ただ死ぬだけだ。そんなことを考えている蝉には、まだ出会ったことがない。そもそも蝉にそんな思考能力があるとは思わないが、それは一旦置いておいて、消極的な蝉を見つけ出すことが出来ない。僕らが知っている蝉はどこまでも性に従順な『偉い』蝉だけだ。
僕もこのままでは知られない人になるだろう。子を残さない人は、子を残す『偉い』人の波に埋もれて人知れず消えていく。種として、社会全体として、『偉い』人類が続いていく。僕は別に不稔だとかそういう訳ではないが、そういう悩みを抱える人はどうだろうか。
蝉ひとつでこんなことを考えてしまう。嫌な脳だ。そして、悩みを抱える人について何か答えを導いたわけではない。ただ、ふと、そんなことが頭を過っただけだ。無責任な話だ。
泡沫思想は、蝉の命より短く儚い。
けたたましい声をあげるなり、静かながら深く長く考えるなり、僕は僕の価値を上げていかなければみたいな変な焦りが湧いて出る。
蝉の鳴き声は、聞くと何故か哀しくなるし、聞くと何故か焦ってしまう。