「そんな、光。」
心には周期がある、そんなふうに思う。身体にだって周期があるのだから、身体の内側に現れる心に周期があるのは当然なのかもしれない。心の波が深く沈み込む時、運悪く他の波も深く沈み込んでぶつかり、共鳴を起こし、水面を強く持ち上げながらさらに沈んでいくことがある。今の私はそんな感じだ。大した振幅の波じゃなかった気がするのだけど、気がつけばどう、どうと大きく深く、重くなっている。
何となく気が落ち込みがちな日々が続いて、「あ、そういう周期なんだ。」と納得した。重なるように試験やら将来への決断やらが迫ってきて、プライベートでも人間関係に思い悩むようになった。オン、オフ、どっちにしたって別の悩みが頭を埋め尽くすから、ずっとなにか上手くかない状態が続いている。そんな時期にamazarshiが新曲を出してきてしまったものだから、その曲以外の数多の曲も、一気に頭の中に沸いてきて、占める。
amazarashiの曲には、耐え難い絶望と、それに泥臭く立ち向かう果敢な姿勢の美しさが表されていることが多いように感じる。厨二的とも言える厭世的な心理描写のざらついた手触りは一級品だし、ただ悲観するだけではなくその中に暗く暖かな希望を見出そうとするガムシャラさが私はすごく好きだ。好きだというか、取り憑かれたように聞き入ってしまう。聞き入っている間、私も度し難い実状に潰されかけていて、それを今まさにはねのけんと立ち上がれるようなら気がしてくる。でも実際よくよく考えてみると、私はそれほど追い込まれていないし、何となく抱える陰鬱とした感情は程度がしれていて、それをはねのけることでは全く輝けやしない。絶望に打ちひしがれることもなく、絶望に抗うことも出来ない、空っぽな人間であることを自認させられるのだ。
そんなだから、amazarshiを聞いていると二重の意味で悲しくなる。悲しくなって、救われる。どう、どうと沈む波は実は大して重くないのに、簡単にのまれてしまう自分を冷えた目で見つめ直すことが出来る。
私は多分恵まれた方だ。恵まれているからこそ何もかも上手くいかない時期があるんだ。結局今日も答えは出なかった。そんな、光。